そんなに熱心に見ているわけではないのだが、恐らく同じ時間帯に放送されている裏番組に競合するほどの魅力がないせいでチャンネルを回してしまうのだろう、NHKの「美の壷」という番組が時々私のテレビに飛び込んでくる。例えば「暖簾」だとか「根付」などなど毎回異なった工芸品を取り上げ、どちらかと言うと骨董趣味的な傾向の強い番組になっている。
 その番組を見ながら、そう言えば「美しい」と言う言葉を最近聞かなくなってきているような気がしてきた。そして代りに広がってきたのが「かわいい」と言う言葉ではないかとふと思った。

 いつの間に「かわいい」という語がこんなにも世の中を席巻し始めたのだろうか。昔から「かわいい」は存在していた。例えば赤ちゃんを見て「かわいい」と表現することなどはむしろ当たり前だったかも知れない。
 それが今やなんでもかんでも「かわいい」になった。いやいや「かわいい」以外の表現を使わなくなった。

 人や社会の価値観をどう表現するかは昔から議論されてきたことではあるけれど、そうした中の一つに「真・善・美」と言うのがあった。この言葉を金科玉条として固執するつもりはないけれど、少なくとも人間性の基本にこの三本の柱を置く考え方のあったことは認めてもいいだろう。そしてその中に「美」があった。「真」と「善」がどちらかというと倫理的な側面を有しているのに対して、「美」には客観的な「かくあるべき」とされるような規範のないことが少し気になるけれど、それでも一つの価値観として承認されていたと言ってもいいだろう。

 「美しい」ことと「かわいい」こととは別次元のものであろう。厳密にこの両者の違いを定義することは私には難しいけれど、「美しい」にはどこかで人を感動させる要素が含まれているのではないかと思っている。
 それじゃあ「かわいい」に感動の心は含まれていないのかと開き直られると困ってしまうけれど、「美しい」には絶句するというか言葉を呑むというかそんな要素が含まれているような気がしている。
 だから「美しい」は「かわいい」とも違うし、また「きれい」とも違う別次元の意味や感情が含まれていると思うのである。

 そうした我々が何気なく使う言葉の中から「美しい」が消えていこうとしている。目を見張るような景色も、言葉を失うような感動も、泣きたくなりそうなほどしっとりとした情動も、そうしたことごとくを現代は「かわいい」の中に押し込めようとしている。
 美しさには多様性があるのではないか。もしかしたら「かわいい」も美しさの一つの表われであり、場合によっては「怖いような美しさ」だってあるのではないだろうか。私はふと、梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という語を思い出す。彼の小説「桜の樹の下には」の冒頭に掲げられた余りにも有名な言葉だけれど、まさに「鬼気迫るかのような桜の美しさ」がそこにあり、地中深く腐乱していくであろう屍体と結びつける以外にその美しさを表現できないと感じた著者の気持ちがまっすぐに伝わってくる。

 だからと言って私は世の中から「美しい」の持つ多様性が消えてしまったのだとは思わない。ただ美しさを表現するだけの言葉や心を失ってしまっているのではないかと感じているのである。「美しい」という情感は、「美しい現象」を美しいと感じる心がないと自分や他人の心に届くのが難しいのではないだろうか。「美しい」と思う心が「美しさ」を生み、育んでいくのではないだろうか。

 それが今は入り口から閉ざされてしまっているような気がする。「かわいい」と表現したとたんに、その情景は「美しさ」を跳び越えてしまうのではないだろうか。「かわいい」と呼びかけそこで納得してしまうことで、人は大切な美しさを理解する心をどこかへあっさりと放棄してしまっているのではないだろうか。

 私の独断かも知れないけれど、「かわいい」には根拠も説明も必要としない単なる結果表示だけになっているような気がする。「美しい」には何が、どんな風に、どうしてなどなど、様々な問いかけができるのに対して、「かわいい」には何の説明も必要としない冷たい断定だけがあるような気がしてならない。
 その単純さが今の若い者や時代に順応する言葉として重宝され普及し伝播していく力の源泉になっているのかも知れないけれど、どこかで「美しい」という言葉を復活させていかないと、「美しいと思う心」までもが彼方へと流されていってしまうような気がしてならない。

 現代は言葉までをも均質化させようとしていくのだろうか。言葉が変化するということは時代の変化でもあるだろうし、場合によってはその言葉の示す事柄が時間の彼方へと消えてしまったことの証明でもあるだろう。そうした意味では、死語というジャンルは失われたことどもの墓標の群立を示しているのかも知れない。
 だがしかし、言葉を失うってことはその言葉の持つ心までをも失ってしまうことを含んでいるのではないのだろうか。人はどうしてそのことに気づかないのだろうかと思い、そして「美しい」もまた、死語の中に取り込まれようとしているのではないかとの不安に駆られているのである。



                              2008.7.26    佐々木利夫


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「かわいい」と「美しい」と