中国から輸入された冷凍ギョウザに致死量とも言える農薬が含まれていた事件が昨年末から1月にかけて発生し、それを契機に日本人の中に中国産を中心とした外国製の輸入品に対する信頼が急速に失われてきているようだ。
 そのことはよく分かるのだが、その反動で急に国産品に目覚めたかのような風潮には多少気にならないこともない。

 日本の食の安全に関する法令がどの程度きちんと整備されているのか、そしてそのための検証にどんな手段が構築されているのかを私は必ずしも理解しているわけではない。その程度の理解でこんな風に言っちまうのは無茶かも知れないけれど、国産品だからと言ったってそれだけで安心安全が保証されているわけではないような気がする。

 昔聞いた落語だっただろうか。豆を煮ていた商家の旦那が使用人にその煮え具合を確かめるように命じた話である。使用人は鍋の中から一粒取り出して食べてみる。そこで使用人は考える。今食べた豆は確かに煮えていた。だが食べたのは一粒だけである。残った豆も煮えているとは限らない。もう一粒味見する。これも煮えている。だが豆はまだ残っている。旦那から命ぜられたのは豆が全体として煮えているかどうかということである。かくして全部の豆についてチエックする必要があると感じた使用人は、しばらくしてから「豆は全部煮えていました」と自信をもって報告するという話である。

 冷凍ギョウザでも話題になったことではあるのだが、流通する食品に対してその全数を検査することは不可能だと言われている。それはそうだろう。貨物船一杯に輸送されてくる食品に対して、その全部について安心で安全な食品かを個別に検査することなど論理的にも不可能であろう。

 結局はサンプル調査しか手段はないことになる。さてその場合のサンプルである。かつて、統計学の勉強で一定割合のサンプルを調べることで全体の判断ができると学んだことがある。だからこそ世論調査だの選挙における出口調査などが実施され、それなり信頼される結果を示しているのだろう。

 ただこの方法には、サンプル自体にそのものが全体を示す標本として適格であるとする資格が必要になってくる。偏ったサンプルからは偏った結果しか表われてこないだろうことくらいは、別に統計を学ばなくたって分かる道理である。
 つまりサンプルにその資格がなければ、どんな統計手法を用いたところで信頼できる結果などまるで望めないということでもある。

 さて先に書いた落語の豆の話である。「芋の煮えたもご存じないか」のイロハカルタの意味は、そんなことくらい任意の芋を一個だけ箸などで突き刺してみれば分かるじゃないかとのことでもある。豆もそうである。一粒味見してみてきちんと煮えていたなら、他の豆は食べてみなくたって煮えていることくらい分かるだろう。落語の落ちはそこにあるのだろう。

 だがこの話はその豆が均質なものであるという前提なしには成立しないことくらい誰にだってわかることである。豆にだって様々な産地の様々な品種があるだろう。品種が違えば煮える時間に違いが出てくるかも知れない。味付けにだって異なる方法が必要になるかも知れない。
 料理のことにそれほど詳しいわけではないが、菓子職人が「十勝の小豆」であるとか「吉野の葛」にこだわったりするのは、産地や品種などによって製品の仕上がりに違いが出てくることを意味しているのではないだろうか。場合によっては、特定の農家の製造した製品にまでこだわる人だっているかも知れないのである。

 だが今や袋詰めされた中には世界各国の豆が混ざりこんでいるかも知れないのである。しかも、その豆の中にもしかしたら意識的に投げ込まれた一粒の毒入り豆が入っているかも知れないのである。全部食べてから煮えていましたと報告した落語の落ちは、今や落ちになりえないような時代になってしまっているのである。
 全数調査は不可能であり、しかも全数調査でなければ100%の信頼を置くことのできない時代、それが現代なのである。

 だからと言ってそのギャップを、不可能だとして放置しておくわけにはいくまい。全数調査が不可能であることは観念的にも、費用の面でも理解できる。
 そうだとすればそのギャップを埋める手段は結局「信頼」の二文字しかあるまい。

 国産にこだわる心理の背景には、外国産よりも国内産のほうが信じられるのではないかとの思いがあるのだろう。
 生産者や国などが国産にこだわる思惑の中には、外国産への不信なども利用した食料自給率の向上を図ろうとしているではないかとの疑念を感じないではないけれど、自給率の向上は国としても必要な目標だと思う。
 日本の自給率は農林水産省によれば2006年のカロリー単位で39%だとされている('08.3.8 朝日新聞 ウオッチ)。どの程度の自給率が望ましいのかについて必ずしも私自身分かっていないのだが、自給とは国の自立の側面をも意味していると思えるから、多くを輸入に頼っている現状は少しずつ改善していく必要があるだろう。

 それにしてもそうした自給の背景には食への信頼が不可欠であることは否定できないだろう。無農薬であるとか有機農法だとか自然農法だのと、耳障りはいいけれど消費者には必ずしもきちんと理解できない用語が一人歩きしている。

 現代は食品に含まれる原材料や添加物などの内容を網羅的に表示するような方向へと動いているような気がする。だが全部の表示がされている訳ではない今だって、私には書かれている内容のまるで理解できない製品が多いのである。ましてや食品の全部について、そうした原材料や添加物の知識を消費者自身が理解しなければならないようなシステムは、どこか国民不在の方向を示しているような気がしてならない。

 最近、居酒屋などで「赤ちょうちん」ならぬ「緑ちょうちん」が流行っていると聞いた。緑ちょうちんにはその店で使われている野菜が国産であることの意味があるのだそうである。そのちょうちんには星のマークがついていて、五つ星が最高ランクで国産野菜使用率80パーセント以上を示しているのだとも聞いた。

 最近の中国製冷凍ギョウザ事件をも取り込んだ一種の商売戦術だとは思うけれど、私には一つの信頼の方向を示しているのではないかとの思いもしている。
 五つ星に対する信頼は結局その店のオーナーに対する信頼によるところが大きいとは思うけれど、一つ一つの品々に産地や成分を表示して客に提供すると言うのではなく、トータルとして「国産」を緑ちょうちんにイメージして販売するところに、これからの日本の食の安全にかかわる重要なヒントが隠されているような気がしたのである。

 緑ちょうちんに対する信頼を、もし単にオーナーに任せるのではなく、客観的な第三者機関のようなきちんとしたシステムに委ねられるとしたならば、消費者は緑ちょうちんを頼りにするだけで安全で安心な食品を口にすることができるのではないだろうか。
 スーパーの入り口に緑ちょうちんがぶら下げるまでになるのは難しいかも知れないけれど、例えば食品の包装に緑ちょうちんマークがついていれば、例えば国産でなくとも無農薬、無添加などが保証されているというような方向に持っていくことはできないだろうか。

 私自身の知識不足によるところが多いのかも知れないけれど、山のような理解できない添加物の表示に囲まれた生活をしていると、例えば「赤ちょうちん」は信頼できる肉、「緑ちょうちん」は安心な野菜、「黄色ちょうちん」はアレルギー対策済みの食品といったような単純なシステムへと持っていくことは一つの選択肢として有意義なアイデアではないかと思うのである。

 今さら古典的な言い方になるかも知れないけれど、そうした方向はちょうちんへの信頼、つまり生産と消費をつなぐ信頼への一つの方法ではないかと思うからである。そして本来信頼とは、包装紙に数多くの情報を書き連ねることやコマーシャルで安全を繰り返すことではないと思うのである。
 こうした食品偽装などが話題になること自体、作る方と使う方との信頼と言う最も基本的な思いがどこかで途切れてしまっていることの表れなのかも知れない。そのことが互いの不幸や時にはとんでもない不便を引き起こしていると知りながらも・・・。

 法治国家へと人は社会を進めてきたのだから、原材料の表示も産地などの表示もルールとして定めてしまうのは仕方のないことかも知れないけれど、それでも信頼とルールとはやっぱりどこかで少し違うのではないかと思うのである。ルールを決め、それに従わせることが信頼の基礎となるみたいな考え方を一概に否定するつもりはないけれど、ルールがなくたって信頼なんてのは昔からあったんだと思ってしまう。
 そしてルールを決めたことで、逆に「ルールの範囲内ならば何をやってもいい」、「ルールにないことをやったとしても、それは信頼の範囲内のことだ」などと開き直る風潮を生んでいるのではないだろうか。

 政府は食料品について、原料の原産地表示の拡大強化へ動こうとしていると今朝(3.20)のテレビは報道していた。当面は業界の自主規制に委ねる方向らしいけれど、私には拡大強化へと進むのではなく、縮小そして誰にも分かりやすい方向へと歩んでいくべきではないかと思えて仕方がないのである。



                          2008.3.20    佐々木利夫


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国内産を喜ぶ心