行政でも企業でも何か反省などを含む自己決定をしようとする場合、「お手盛り」で自分に不利にならないような変更をする可能性がないではないけれど、逆に言えば自分のことだからこそ、自らに最も不利でしかも対外的に信頼されるであろう内容をきちんと理解でき作り上げることができるのではないかと思うのだが、現実はどうもそんな風には動いていかないらしい。

 色々な場面にこの「有識者懇談会」みたいな外部団体と称する識者による審議会・諮問委員会のごとき組織を立ち上げ、そうした有識者とされる人たちの意見を聞き、その結果をもとに自己決定をするというケースが最近とみに増えてきているような気がする。

 それだけ行政や企業に問題点や不祥事が溢れていることの表われなのかも知れないけれど、こうした外部の人間の意見を丸呑みしてしまい、その結果をもって自己改革がなされた証拠みたいにのたもうような現象は、自らの持つ自浄能力の欠如や不存在そのものを示しているような気さえする。

 そうした現象に加えて、最近は行政の世界にパブリックコメント(パプコメ)と称する手法が流行ってきている。これは審議会などでの意見を基に方向を決めるのではなく、広く国民であるとか利害に関係のある企業などの意見を広く聞く仕組みである。

 主として行政側が法令を制定したり改廃したりする場合や、そのほか何らかの政策を決めようとする場合に、「素案」の状態で広く意見を求めようとするものである。匿名や仮名などでない限り国民に限らず企業や団体でも自由に意見を提出することができるようなシステムになっているらしい。
 「らしい」とつけたのは、現実に私にはそうした意見を述べるような機会にこれまで恵まれたことがなかったものだから、具体的な手続きなどを知らないからである。

 このパプコメ制度は1999年3月に「規制の設定または改廃に係る意見提出手続」として閣議決定され、中央省庁で始まった(朝日新聞、’08.5.16)のが、いつの間にか地方自治体にまで広まってきているようである。

 制度の概要を見る限り、「いかにも民主主義です」みたいな顔をしているけれど、どことなく胡散臭いものがまとわりついている。それはこの制度によって寄せられた意見の様々が、どのように採用され、どんな理屈で排斥されたのかなどの情報が一般に公開されていないことにある。
 つまり意見を求めた側は、寄せられた意見には一切拘束されないことが始めから分かっており、そしてその無拘束の事実を行政や企業が余りにもあからさまに表明していることが、どうにも鼻持ちならない臭いを放っている源泉になっているような気がするのである。

 行政なり国会がこうした諮問委員会などの意見に拘束されないとする原則は基本的にはいいことだろう。日本は法治国家であり、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」(憲法41条)のだから、司法以外のシステムに法律そのものが拘束されるようなことがあってはいけないだろうし、企業だって私的自治の下で自己決定こそが望ましい姿勢でもあるだろうからである。

 だがそうした他から干渉されることを排除すると言う論理は、逆に言うと審議会の意見聴取やパブリックコメントそのものを軽視し、場合によってはないがしろにしているのではないかとの疑念を国民が抱く原因になっているのではないだろうか。
 つまりは「客観的な意見を伺いました」とか、「国民の意見をきちんと聞きましたよ」という外見を整えるだけのために利用しているのではないかとの疑念である。

 そうした疑念の背景にあるのは、「客観的な意見」を採用したとされる様々な意見の寄って立つところがきちんと説明されないことにある。どんな意見が出されたのか、その意見はどういう形で採用されたのか、もしくはどんな理由で不採用とされたのかなどの経過が、閉鎖的な場では論議されているのかも知れないけれど、国民だとか市民だとか大衆には結果以外はまるで知らされないことにあり、もしかしたら審議会などの構成員に対しても納得できるような採否の理由などが説明されていないのではないかと疑われているからである。

 だからそうした経過には、どうしても「自分の都合のいい部分だけを採用して、不都合な意見は無視されているのではないか」との臭いがつきまとうことになる。
 そうした人々の不信の思いが、本当に多数の客観的な意見を求めようとしている者にとって不本意であることは分かる。ならばそれを解決するためには意見集約、採否などの経過を人々に示すしか道はないだろう。

 どんな手段がいいのか、審議委員になったこともパブリックの一員として意見を述べた経験もない私としてはすぐには思いつかないのだが、いくつか方法はあるだろう。
 例えば意見採否の経過を記事碌の閲覧やインターネットやマスコミなども含めて公開すること、意見を採用した場合はもちろんのこと採用しなかった場合にもその理由についても公開すること、述べた意見と異なる解釈がされていると感じたりまたは無視されたような場合には当事者に苦情や異議の窓口を設けることなどがあげられるかも知れない。

 そうした情報の公開のないままに、第三者委員会みたいな機関の意見を聞いた結果であると自称するシステムの改変が政治や経済などの分野を問わずに広まってきている。そして公開のないことが益々そのシステムを形骸化し、どこかでほくそ笑んでいる誰かの存在を示しているような気配を加速させている。
 こんなことを続けていたら、それこそ「委員会に諮問しました」という言葉そのものが、諮問した側の責任回避、責任放棄、無責任、他人任せの自立機能の欠如を示す意味を含んでいると受け取られてしまうような気がしてくる。

 ところで日本には昔から「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」との慣用句もあるではないか。そして「臭いものには蓋」であるとか「厚顔無恥」などの語も・・・。
 懇談会や審議会、諮問委員会がそうした半兵衛や蓋になることのないようなシステム作りが必要な時代になってきているのではないだろうか。



                          2008.5.29    佐々木利夫


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