時に言葉は驚くほどの残酷さを持っている。最近読んだ本の中にどうも引っかかって仕方がない一言があって、喉の奥に刺さった魚の小骨ように感じている。その言葉は決して私に向けられた刺ではなかったのだが・・・。

 「私をほとんど狂喜させたのは、著者が自分の家族について書くにあたって、言葉にまつわる思い出を軸に用いるという、手法の斬新さであったと思う。いつひとりよがりな自伝に堕してもおかしくない危険な素材を用いながら、この手法のおかげで、作品にすこやかな客観性が確保されているのをみて、私はふかくこころを動かされた(須賀敦子、霧のむこうに住みたい、河出書房新書、P58)。

 著者がイタリアの作家、ナタリア・ギンズブルグの「ある家族の会話」と題された作品について触れた部分での感想である。
 「ひとりよがりな自伝に堕してもおかしくない危険な素材」とはなんと残酷な言葉だろうか。

 著者である須賀敦子を私はまるで知らない。この著作との出会いだって、近くの図書館の新刊書コーナーに並んでいたことと、書名がなんとなく私好みの雰囲気を漂わせていたからだけにしか過ぎない。最後のページに掲載されている広告によればけっこう多くの著作を出版しているらしいので、それなり著名な作家なのだろうけれど、私の興味の湧くジャンルとは多少違った分野の作家だったらしいこともあってこれまで出会いの機会がなかったのかも知れない。

 それにしてもこの本を読む限りどことなく気になる文体の作家である。内容がどうのこうのと言うのではない。この「霧のむこうに住みたい」という作品だってともかくも最後まで読み通してはみたものの、イタリア人と結婚した著者のイタリアでの習慣や生活などを中心とした心象風景であり、イタリアなど地図でしか知らない私にとっては決して興味をそそる内容ではなかった。

 それでもどこか湿っぽい感じの文体にはどことなく惹かれるものがあった。後書きの解説で同じく作家の江國香織は彼女の文章を「雨に繙(ひもと)く」と題し、雨が降っている気分になるとその感想を述べている。そうした感想は必ずしも私のイメージとは結びつかないけれど、それでも彼女の文章がどこか気になる文体、違和感のある文体で構成されていたことは否定できない。

 それは確かに湿っぽさにつながるものであり、決してギラギラと研ぎ澄まされた刃物のような文体とは異なっている。だから彼女の文体から言葉の残酷さを感じてしまうのは少し私の思い過ごしかも知れない。

 とは言うものの、こうして毎日のように仕事の合間に雑文を書き散らしながら生活していると、どうしてもその雑文は身近なものになりがちである。そして同時に作られた文章がこの身の矮小さをあからさまに示していることでもある。それはまさに「ひとりよがり」そのものではないのかとの思いを私に突きつけるものでもあった。

 そうした客観的な感想なり評価は、こうしてホームページで勝手に発表している作品にあっては第三者から書いている者に到達することは極めて稀である。それはホームページそのものは広く開かれているとは言うものの、感想を寄せる読者は多くの場合知人などの僅かな範囲に限られてしまうことが多いからである。
 そうしたことは私自身のホームページにも月に数千件のアクセスがありながら意見が寄せられるのは数件にしか過ぎないこと、更には私自身がネットサーフィンを繰り返して多くの他者の作品に触れながらも作者へ感想などを寄せることなどほとんどないことからも分かる。

 だからと言っても発表する作品が増えてくるにしたがって、マンネリだとか繰り返しだとか底の浅さみたないものを感じてしまうことは避けられない事実である。
 そうした時にこの文章を読んだ。「ひとりよがりに堕する」との彼女の一言は、まさに今の自分に対する強烈な一打としての効き目を持っていた。私が書いてきたこれまでをざっくりと見透かされてしまつたような気さえしたのである。

 それは彼女のせいではないかも知れない。彼女の言葉に触発されて私自身が自分にも隠していた内心の思いがいきなり皮を剥かれて外気にさらされたに過ぎないのかも知れない。
 それでも私はこの本のこの言葉に、なんだかやりきれない思いを抱かされたのである。それはまさに「そこまで言うかよ・・・」とでも表現できるような、言葉を大切にしなければならないこと、そしてひとりよがりに堕することへの残酷な警鐘として作用したのである。



                          2008.2.5    佐々木利夫


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言葉の残酷さ