師走に入ってアメリカ発の金融危機に端を発した経済不安は、日本経済へも深刻な影響を与え始めている。小売り、製造などなど一次産業も含めて何もかもが不振になってきて、企業による内定取り消しや派遣切りなどの雇用不安が全国に拡大してきている。
 これまでにもオイルショックだのITバブルだの不動産バブルなどなど、日本はさまざまな景気の変動を経験してきたけれど、なにもかもが一まとめになった今回のような不景気は少なくとも私には経験がない。

 こんな現実的な世相の中にあっていまさら幽霊話しはそぐわないだろうが、実は私は幽霊が苦手である。信じているのかと問われれば「NO」と答えるのに躊躇はないけれど、例えば古い旅館の真夜中に一人で廊下の外れのトイレへ行くことなどや、薄暗い天井の染みとも節穴ともつかぬ模様に囲まれることなどもどちらかと言えば苦手な部類に入るだろう。

 そうした気持ちは、人はどこかで「信じる」、「信じない」と言った割り切りの世界とは別の少し曖昧な部分で生活していることに原因があるからなのではないかと思う。子供の頃は確かに幽霊は存在していたのだと思う。だが次第にそれは「存在しない」ことへと理解が進んでいったことによるものだろう。それとも二律背反の中に自らの観念を不存在の方向へと押し込めてしまった結果なのだろうか。

 「美」や「真実」や「正義」・・・、いやいやそうした立派な額縁に入ったものでなくたって、例えば「嘘」、例えば「嫉妬」、例えば「憎悪」・・・、恐らく世の中のどんな感情にも相応の巾があり、その中で人はゆれ動いているのではないだろうか。つまり、「負」の部分も含めて人は人なのではないだろうか。

 それにしても幽霊は全体として幽体としての存在である。それを亡霊と呼ぼうが妖怪と呼ぼうが、世界中に死者の魂の表れとして幽霊じみた存在は多数存在しているが、恨みにせよ愛情にせよ死してもなお生きていたいとする人の気持ち、または死くらいで人の情念は消えるものではないとする生き残った者の意思の表れであろう。

 だとするなら、白い帷子を着ているのはどうも不自然だ。着物はそれ自体意思を持たない単なる無機質だからである。もちろん人間の身体そのものだって無機質ではないにしても「物」であることに違いはない。人の持つ「意思」だとか「意識」という感情がどこに根源を持つのか私は必ずしも理解しているわけではない。人の感情を「ハートマーク」で表すのは世界共通みたいだが、それは心停止が一番分かりやすい生死を判断する手段だったことからくるものであり、そのことが心臓が命の象徴みたいに扱われたことからの延長であろう。

 人間を人間たらしめているもの、もっと極端に言えば他の生物も含めて命の根源を「脳のはたらき」と考えたところで、そのことに誤りはないかも知れないけれど、だからと言って生命が「脳」だけで解決するものではない。確かに手足がなくたって、場合によっては目や耳が不自由であっても命の存在そのものが否定されるわけではない。だが意思や意識だけが抽象的に生命そのものを証明しているわけでもないだろう。

 だとすればそうした意識を他者に認識させる手段としての身体の存在もまた、個人としての人の存在を作り上げていると言っていいかも知れない。ならば幽霊に手足があったり、時に「うらめしい」との言葉を吐いたり、生きている人間と言葉を交わすことがあったって矛盾はしないかも知れない。

 だが衣服はそうした意識と結びついた存在とは異質である。確かに「裸のままで生きている人間の前に我が身をさらすのは恥ずかしい」と幽霊が思うのだとすれば、そうした思いが白い帷子に変質して身にまとう現象を生むという考えも理解できないではないけれど、そうだとすれば幽霊は自らの意思によって物体を作り上げることができるということになる。

 まあ、私も含めて幽霊の存在はともかく、その着ている帷子が単なる「視覚」、つまり見えるだけであって実体でないことを確かめた人はいないのだから、そんなことに目くじらをたてても仕方のないことではある。

 ただ、最近のテレビを見ていて、それを幽霊と呼ぶかはたまた魑魅魍魎(ちみもうりょう)と呼ぶかは別として、この未曾有とも言える不況を前にして政治家も評論家もニュースキャスターも企業家も労働組合も、みんなどこか人間離れしていっているような気がしてならない。そしてそうした感情がついついこんな幽霊話になってしまった。

 現下の不況は生易しいものではない。何万人もが非正規労働者が、雇用調整という名の下に職を切られ住んでいる家を追われているのである。労働基本権であるとか景気対策などという枠組みを超えて、生きることそのもの問題になっているのである。
 にもかかわらず、このことについて語る人たちの姿勢がちっとも深刻に見えてこないのである。検討、支援、指導、救済、要請などなど、語る人たちはこぞってそうした言葉を使うけれど、なぜか深刻さがそこに見えてこないのである。

 そして二言目には「金がないから仕方がない」、「未曾有の不況なのだから仕方がない」などと言った仕方がない論が繰り返されるのである。企業は「雇用を優先して損失を出すわけにはいかない」(ソニー、中鉢社長、12.17朝日新聞)とのたもうし、労働組合だって政府や企業に「なんとかせい」と労働者の既得権益を主張するだけで、例えば構成員たる組合員(そのほとんどは正規労働者である)の賃金を多少減らしてでも、同じ仲間たる非正規労働者の雇用の確保に充てようなどとは決して言わないのだから経営者とまるで違わないのである。

 政治も同じである。与党も野党も互いに相手を批判はするけれど、衆議院と参議院で与野党が逆転していること、そして残り9ヶ月以内に衆議院の選挙があることもあって国会運営にしのぎを削るだけで建設的な意見はほとんど見当たらないまま口から出まかせ状態が続いている。その出まかせにしろ、減税を中心とした選挙対策とも思えるようなおいしい話ばかりで財源の裏づけは一切ない。

 そしてやっと出てきた財源が埋蔵金と呼ばれる特別会計の剰余金である。少なくとも昨年まで、埋蔵金などないと言うのが政府の見解であったはずである。それがまるで手品でも見せるようになんでもかんでも可能となるかのような魔法の金庫が突如として表われた。

 互いが自らの利益を守ることのみに汲々とし始め、そうした姿がこうした不況の下であからさまに見えるようになってきた。だから人は政治を信用しなくなった。人は企業経営者を信用しなくなった。人は労働組合を信用しなくなった。人はマスコミも信用しなくなった。にもかかわらず、これらはいたるところにあたかも亡霊のように跋扈(ばっこ)し始め、真昼間の太陽の下でも堂々とその姿をさらしている。そうしてその亡霊たちは恥ずかしさのかけらも見せることなくきらびやかな衣装を身にまとい、「貧困など私とはまるで無縁である」かのような顔つきを隠そうともせずに、「貧困の悲劇」を堂々と語りはじめるのである。まさにこれこそが現代の幽霊の一番の怖さなのである。



                                     2008.12.17    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



幽霊怖い