誰がどんな時にどんな場所で結婚式を挙げようと、そしてその結婚式が無関係な第三者に迷惑をかけないのならば、たとえ新郎新婦が天井からぶら下がってくるような奇抜な演出をしたところで当事者が望んでいる限りとやかく批判すべきものではないだろう。

 そうした意味では、結婚する当事者や参加する人たちなどの望みを逆手にとって式場を経営しようとする者が事業として教会風の建物を作り、そこを会場とする営業を企画したところでそんなに目ぐじら立てることもあるまいと、これまでは思っていた。

 ところが、それほどキリスト教の信者が多いとは思えない日本で、教会を模した結婚式場があちこちに目立つようになってきてから少しずつ違和感を覚えてきた。
 私もかつて仲人をやったことがあるが、その中には教会風の建物で神父に結婚を誓う形での立ち会いもあった。式の進行はあらかじめ決まっていて、手順は発起人から事前に詳細に知らされている。そんなこともあって結婚する彼等に事前に二人または一方、もしくは親族の誰かがキリスト教信者なのか聞いてみたことがあった。だが答えはいつも否定的、つまりキリスト教と結婚式とはまるで無関係であった。

 結局はウエディングドレスに包まれた花嫁がバージンロードを歩くというイベントに魅せられているというだけのことのようである。
 まあ結婚式そのものがイベントの一種だろうし、私自身それほど宗教にこだわっているわけではないから、教会風のスタイルで挙式しようが神社やお寺のスタイルで将来を誓おうが、頼まれ仲人として言われるままに流れていくだけのことだからそれほど抵抗感はない。

 でも「結婚式用の教会」というのが地方の観光地や町外れの公園みたいな場所から街中にも目立ってくるようになり、それもだんだんと立派な建物になってきている風潮がどうにも気になって仕方がないのである。

 数年前仲間同士の飲み会を薄野でやるというので事務所から歩いて向かった途中でのことである。少し遠回りした道路沿いに立派な教会が知らないうちに建っていて、しかも門が開いていてどうやら一般人に内部が開放されている様子である。それとも教会というのは原則としていつも開放されているものなのだろうか。

 実は教会と言う場所へいわゆる宗教的な意味で入ったことはない。その日も別に信仰上の興味があったわけではないのだが、内部がどんな風になっているのか少し気になって覗いてみた。ところがそこは教会ではなかった。結婚式場としてのパンフレットなどが置かれていて分かったのだが、この教会の開放は懺悔やミサのためではなく単なる宣伝にしか過ぎなかったのである。

 信者でないのに「教会で式を挙げる・・・」とここまではそんなに違和感はないのだが、教会を模した式場というのはどこか間違っているのではないかと、その頃から私は感じるようになってきたようである。

 そして昨年暮れのこんな新聞記事を読んで、そうした思いが一層強くなった。
 愛知県のとある式場だそうである。「収容人員150人、バージンロードの長さ30メートル、天井までの高さ27メートル、結婚式用の教会としては、国内最大級の規模を誇る。色ガラスをはめた丸い薔薇窓などゴシック様式の特徴を備え、全体的にはドイツのケルン大聖堂のイメージという。木彫りの祭壇やステンドグラスは19世紀に英国の教会で実際に使っていたもの」(朝日新聞、'07.12.30)という、読んだだけでなんとも堂々たる建物である。

 そして私にどこか変だなと思わせた決定打は、「礼拝させてとやってくる外国の方もいます、と支配人は笑う」という記者の記述であった。

 この支配人の言葉は、その建物が教会としての機能を何一つ持っていないことをあまりにもあからさまに示している。ケルン大聖堂にも匹敵するような外観を見せている教会が、実は100パーセント教会とは無縁であり、単なる結婚式場にしか過ぎないと言う事実があまりにも不自然に感じたのである。

 支配人の笑いには、それほどこの建物が本物そっくりであることへの自信が秘められているのかも知れないが、そんなことに自信を持つのは、どこか宗教に対する驕りがあるからではないかと思えて仕方がなかったのである。教会が信者以外の者にも結婚式場として建物を解放するというのなら分からないではないが、この支配人の思いはこれとはまるでずれているのではないか。

 キリスト教だって信者を一番大切にはするだろうけれど、だからと言って信者以外を差別して追い払うようなそんな閉鎖的な宗教ではあるまい。そして必ずしも教会の外観を見て信者は礼拝に行くものでもあるまい。
 だがこの大聖堂まがいの結婚式場はどこか傲慢である。まるで教会とは無縁だということに、ブランドを真似たコピー商品に群がる商業主義があまりにもあからさまに見えてしまうのである。

 だから私は、間違って礼拝に来た外国人に対して、支配人は「苦笑い」をするのではなく、どこか心の隅で恥じらいや後ろめたさを感じてもいいのではないかと思ったのである。そして宗教とは無縁の教会風結婚式場そのものが、経営者も結婚する二人もそれを許容する日本人も、ともにどこか間違っているのではないかと思ったのである。



                          2008.1.30    佐々木利夫


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教会か結婚式場か