様々な災厄から守ってくれる者へ感謝の気持ちを抱くことは、守られている者としての至極当たり前の感情ではないかと私は長い間無意識に思い込んでいた。たとえその災厄が外側から吹きつのる嵐からだろうと、内にうごめく暴力からであろうとも・・・。

 だが本当にそうなのだろうかと、ふと最近のイラクやアフガニスタン、コソボや東ティモールなどなと゜、それを内乱と呼ぶか戦争と呼ぶかはともかく、アメリカや国連や場合によっては領土を巡って保護すると称する周辺国などの治安部隊と称する軍隊に守られているはずの人々が抱いているその守ってくれているはずの力に対する反抗の姿を見て疑問に思うようなってきた。

 もしかしたら自立した民族や自立しようとする民族、いやいや民族などと大げさに構えなくたっていい、一個の個人としてだって、「守られること」に感じるのは単なる感謝だけではないような気がしたのである。

 例えばイラクの人々がアメリカに抱いているのは、アメリカを憎んでいると言う以上に、守られていることに対する嫌悪そのもの、守られていることへの感覚的な屈辱感、そうした屈折した感情なのではないだろうかと思えるようになってきたのである。
 「守ってやっているのに、そのことに逆らうのは理解できない」と思うのは、もしかしたら守る側の身勝手な思い込みに過ぎないのではないだろうか。つまり、アメリカは守ってやっているからこそ憎まれるのではないだろうか。たとえ「守ってやっている」という露骨な意思表示がそこになかったとしても・・・。

 人は心のどこかで、与えられた平和であるとかセットされた繁栄みたいなものを嫌悪しているのかも知れない。それは基本的には与える者と与えられる者との立場の違いに起因するものであり、その違いそのものの中に不信につながる種が存在しているのではないだろうか。

 そうした不信の背景は歴史につながるものなのかも知れない。人類の民族としての歴史は、それを正確に表現する術を私は知らないけれど、異民族同士のぶつかる場とは多くの場合治安であるとか保護と言う名の正義を装った懐柔、圧制、搾取、略奪、侵略、暴行などにつながるものではなかっただろうか。そして同時に弱者にとっては異文化の強制的な介入という現実でもあったとも・・・。

 強者の標榜する正義は多くの場合政治を名乗る一部の権力者からの要請という形をとり、多くの弱者の服従を求めるものであった。正義の実現は民族の平和につながるのだと強者は訴え、しかもその平和が実現することなどかつてなかったと言ってもいい。

 日本は自立しているのか。横須賀や沖縄やその他多くの米軍基地の周辺で殺人や暴行や土地使用などを巡るトラブルが多発している。そうした様々な報道を知るにつけ、アメリカと言う巨大な軍備の傘であるとか核の傘に日本は守られていると言われ、そのことは日米間の了解であると説明される現実が、果たしてその通りの効果や理解を我国に、そして日本人にもたらしているのかが分からなくなる。

 自立であるとか独立というのは、もしかしたら自らの力による達成感なしには到達し得ない目標なのではないだろうか。それがたとえ、他者から見て独善的な達成、理不尽と思えるような目標を内容とするものであったとしても・・・。



                          2008.4.6    佐々木利夫


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庇護される側の論理