北京オリンピック開催まで4月30日で100日を残すまでになった。日本の代表選手が数々の種目で続々と決まってきている。現在は世界中をいわゆるオリンピック聖火が巡っているが、ほとんどの国で聖火リレーが妨害されるなど、中国とチベットの問題が影を落としている。
 本来、スポーツの祭典であるはずのオリンピックが政治に流されるのは前例がないではないけれど、選ばれた選手の言葉などにも世界の頂点だの、優勝だの、メダルの色だのと言った気負いみたいな表現が多くなってきていることに、選手の言葉というよりはマスコミに強制された紋切り型のセリフのような感じさえしてくる。

 ところで最近こんな記事を読んだ。「50メートルで0.4秒近くも短縮するなんて信じられない」。ある新開発の水着で競泳大会に出た選手の言葉である(’08.4.17 朝日)。
 そしてその記事によれば今季生まれた世界記録37個のうち35個までが、英国のとある水着メーカーの水着を着た選手によるものだったそうである。

 東京オリンピックの頃だったと思うからけっこう昔の話になるけれど、陸上競技などで用いられるストップウォッチが、人間の手と目で計測する懐中時計式のものから光学的な電子機器に代っていった頃の話である。計測結果が10分の1秒単位から100分の1秒、1000分の1秒まで測定されことが可能になり、これはもう選手のスピードの勝負ではなくて時計の勝負じゃないかと、やや皮肉を込めて言われたことが今も頭の隅に残っている。

 余りにも人は金メダルに固執するようになった。「決意はメダル」、「人生賭けて・・・」、「すべてを賭けて闘います・・・」、「センターポールに日の丸を掲げる」などなど、オリンピックを目指す選手の意気込みが、毎日のテレビに氾濫するようななってきた。
 そして僅か0.01秒を縮めることで世界新記録とされる時代にいつしか人も社会も突入していった。

 水着の話しに戻ろう。この記事の中で選手は「(性能が違いすぎて)汚い」とまで語っていた。つまり、そうした記録の出るような素晴らしい水着を特定の選手にのみ着せて競技を行うのは公正さを損なうとの主張であろう。確かにスピードを高めるための水着の開発競争が現実に行われているのだろう。布地の材質や縫製技術やデザインなどの違いで0.何秒かの違いが生まれるような時代になったと言うことでもあろうか。
 だが私にはこの「汚い」という言葉の中に、どうしょうもないほどスポーツが人の心から乖離している現実が示されているような気がしてしまったのである。

 そして今日の記事に載ったある水泳コーチの談である(5.2 朝日)。
 「決勝に進んで、他の7人がスピード社製の水着だったら、どうなるか。水泳人生を賭けた五輪のスタート台で、絶望感を感じるだろう」。
 スピード社とはイギリスの水着メーカーである。この発言の背景には日本水泳連盟がこのスピード社以外の3社とその社の水着だけを使用するとの契約を交わしているという事実がある。オリンピックは今や商業主義にまでがんじがらめに縛られているということでもあろうか。
 私には好きな水着を着ることで記録の更新を狙おうとする選手の思惑にも、契約以外の水着の着用を認めないとする水泳連盟の思惑にも、ともに納得のいかないものを感じてしまう。

 もちろんこうした傾向は別に水着だけに止まるものではない。靴や靴下や球技のボールの製法、更にはスケートリンクの氷の温度や氷そのものの性質、トレーニング方法などにまで記録向上のための研究が及んでいると聞いたことがある。どんなスポーツだって素っ裸で何の道具もなしにやる競技など皆無だろうから、それぞれに衣服や環境や道具や訓練方法などに勝利のための秘策が考えられているのかも知れない。

 「より高く、より早く」を願うことはスポーツとして本来のものだとは思うけれど、100分の1秒だとか1000分の1秒などの争い、そしてそのことに選手も観衆も応援者も政治や商業までもが余りにもこだわる風潮が、スポーツをどこか変貌させてしまっているのではないだろうか。
 「品格」という語が最近ブームになっているようだが、そうした題名の本がベストセラーになること自体に、人や社会がどこか競争という狭い世界の中で自らを失いつつあるような気がする。

 薬物などのドーピング問題も結局は自らの体にまで記録向上のための操作を加えようとした結果と言うことになるだろう。「競争」とは一体何なのだろうか。努力や汗の中に一生懸命の価値を見出してきたこれまでの人の思いは間違いだったのだろうか。金メダルという中に、人はステータスというか成功体験と言うか、それとも「裕福な上流社会」みたいな架空空間を作り上げし、そこに安住しようとしているのだろうか。

 今日から香港での聖火リレーが始まった。フランスやアメリカなどなど日本の長野まで混乱続きだった聖火リレーは韓国、北朝鮮そして中国へと入ったとたんに突如として整然としたセレモニーへと変わっていった。平穏も整然もともに統治されている事実を暗示しているのかも知れないが、混乱も含めてオリンピックそのものが変質していっていることを示しているのかも知れない。



                             2008.5.2    佐々木利夫


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