「春はあけぼの」はあまりにも有名な清少納言、枕草子の冒頭のフレーズだが、正月を初春と当たり前に呼んでいる地域とは違って、北海道では朝ぼらけの白みが少し早まってきたとしても寒さの本番はこれからだと覚悟を決めなければならない。北国の春は、それこそ春の彼岸(春分の日)が間近になって雪融けの予感が匂いだすあたりから感じ始めるのが実感である。

 どんな風情に春を感じるかは受け取る人によって様々であろうけれど、私は実感として水音がいち早い季節の変わり目を教えてくれているような気がしている。
 もちろん厚いオーバーコートの背中越しの日差しがふと暖かく感じられたり、日の出の太陽が冬至を過ぎて少しずつ東へと移っていく気配にもそれなり季節の移り変わりを感ずることはできる。
 だが実感としての春は矢張り水音なのではないかと思っている。

 水音とは本来、川の流れを言うのかも知れないが、年が明けてもそうした川の流れを耳にするのはまだ先である。2月も末に近づいて晴れた日が幾日か続くようになると、どこからともなく屋根から伸びたつららから滴り落ちる水滴が地面を打つ音が聞こえてくるようになる。昨今は暖房効果の高い住宅が多くなってきたから、昔のような巨大なつららを軒下などに見ることは本当に少なくなった。

 それでも軒先などにぶら下がるツララは小さくてもやはり冬の風物詩であり、時に工場や倉庫などの一角に数メートルもの巨大な氷柱を見つけるとそれだけでどことなく嬉しくなってしまう。
 そうしたツララを伝って水滴が地面へと向かう情景は、それだけで春を知らせてくれるのである。ツララから落ちる水滴の高さや大きさがそれぞれ違うから、地面を打つ音色もリズムもまたそれぞれに異なる。

 その音はまるで様々な種類の打楽器を聞くようである。時に水滴は自身をキラリと光らせながら、片道約50分の朝の通勤に密かな春の信号を送ってくれるのである。帰り道ではなぜかその音は消えてしまっているから、水滴にきらめく陽光と水音こそが春を知らせる朝の小さな挨拶でもある。

 そうしたツララからの水音が途絶え始めると、春の信号はやがて川面からの水音に代わる。自宅を出て残り10分ほどで事務所へ着こうとする地区に琴似発寒川と呼ばれる巾が10数メートルの流れがある。手稲山麓を源流としたこの川は、途中左股川(ひだりまたがわ)を合流し琴似川と出合って新川となり、やがて数キロ先で日本海へと注いでいる。
 琴似発寒川と呼ばれている区間は延長12キロくらいだと言われているのでそれほど大きな川ではないけれど、短い分だけ急流でもある。

 どのくらいまで気温が下がると川は凍り始めるのだろうか。1月を過ぎてふと気づくと川面は真っ白な雪に覆われている。一晩で一気に凍ってしまうことなどないだろうから、恐らくは両岸や中洲の岸辺などから少しずつ凍り始め、ゆっくりと時を経て川面を覆っていくのだろう。
 もちろん全面結氷となっても、氷の下で水は変ることなく流れているのだろうが、雪原となった川面には時折犬の足跡が見られるだけで水音はおろか流れの片鱗さえも見せることはない。

 それがツララの音の途絶える頃と呼応するように、ところどころに黒い斑点を見せ始めるのである。そしてその斑点は時を置いて一気に拡大していく。まるで山での雪解けを知らせるかのように、見る見る己が川であることを誇示し始めるのである。

 川面を見せ始めると同時に川はとたんにその威容を水音で知らせてくる。雪解け水を得た川は、忘れ去られていた冬の己の姿を、その音とともに鼓舞し始めるのである。
 夏の水音はせせらぎとでも言えるような穏やかな音色を持っているが、3月の流れはまるで大雨の後のように少し濁っていて、逆巻く轟音とでも言えるような響きを持っている。

 昨日は少し帰りが遅くなった。西の空は気をつけて見るとまだうっすら明るさを残してはいたけれど、回りは既に夜である。だが橋を渡る私に向かって、川音は雄叫びとでも呼べるくらいにゴーゴーと暗い闇を越えて吠えていた。



                          2008.3.27    佐々木利夫


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春は水音