「テレビを見て泣いたりはするし、人が死んだとか・・・悲しいときは泣いてもいいんやって。だけど、泣かずにしっかり考えなあかんときとか、泣かずにちゃんと説明せなあかんときは、泣いたらあかんらしい・・・」
     (朝陽・あさひ いっぱいのありがとう  前田妙子著 幻冬舎ルネッサンスP82)


 9.11と呼ばれているアメリカでの同時多発テロが起きた日と同じ2001(平成13)年9月11日に生まれ、今年(2008)の1月21日(奇しくもでもなんでもないけれど、この日は私の誕生日でもあった)にこの世を去った少女が語った言葉である。彼女はその生涯の殆んどを不治の心臓病で入院し続けた。
 この言葉は少女が母から伝えられたメッセージを自分なりに一生懸命理解しようとしている姿を悲しいくらいはっきりと表している。

 人は一人で生まれ、一人で死んでいく。それをたとえ産声と名づけようとも、泣きながら生まれてきた命の誕生は、どんな形で終わりを迎えるのだろうか。その終りの時、人は涙を流すのだろうか。人は死ぬときには心の中にもせよひっそりと泣くのだろうか。

 人はもしかしたら、どんなに短くても、きちんと一生分を生きられるのかも知れないとの思いを、私はこの母と娘の泣くことに対する覚悟の中に、身震いするような直感で感じたのである。

 同時多発テロは私が税理士をはじめて三年目、越中八尾の風の盆見物を見終わって帰宅した三日後に発生した。私の中でそれは遠い国での一つのニュースであり、でかでかと一面に報道された新聞をアルバムの中に記念紙として閉じ込める程度のできごとでしかなかった。

 そんな日にこの少女が生まれたことなど私が知る由もないことだし、今年の私の誕生日までの6年数ヶ月をどんな思いで生き続けてきたかを知ることなどできないこともまた当然である。この本に触れるまで、そうした少女の誕生もそしてその死も私のまるで知らないところで起きたことであり、その事実を知らないことについて私には何の責任も、更には非難されるべきどんな理由もなかったのだから。

 それはそうなんだと思う。私の知らないところで人が生まれ、人が死んでいくことは、私にはまるで関わりのないことなのだし、それが世の中なのだと思う。私がこうしてこのエッセイを書いている間にも多くの人が生まれ、そして亡くなっていくことだろう。そうしたことは私を越え、私の住む街を越え日本を越え世界へと広がっていくだろうし、そうした出来事は単なる生々流転の一つの事象として私とはまるで無関係である。そして無関係であることは、そのまま無関心と同義でもある。

 「ぼくは不完全な死体として生まれ、何十年かかって、完全な死体となるのである・・・」は、寺山修司の有名な詩の一節だけれど(「懐かしのわが家」)、生もまた死への過渡期を示す現象なのかも知れない。人はどんなに長生きしたところで、存在していた期間よりも不存在の期間のほうがずっとずっと長いのだから。

 それでもなおこの少女の一言は、僅かな期間にしろ生きることへのひたむきな思いを伝えてくれる。そのひたむきさは恐らく少女が母から伝えられた思いでもあるのだろうけれど、人はいつか泣くことの意味を忘れてしまったのではないだろうかと、ふと自身を省みて考えさせられた思いでもあった。

 この少女の「泣くこと」への思いには背負いきれないほどの重さが詰まっているけれど、それを超えるような「しっかり考えなければならないこと」のあることを、私たちはどこまで道連れにしていけるのだろうか。私たちにそれを背負うだけの覚悟と力と自覚が残されているのだろうか。いやいやそれ以前に、この少女が必死に理解しようとしていたほどの「泣くこと」に対する重さを、人は果たしてどこまで自分のものとして背負っていけるのだろうか。



                                     2008.11.7    佐々木利夫


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人が泣くとき