人はどこかで理屈を持ち出してきて納得し、そこに安住しようとする。だがその理屈が真実であるかどうかの保証などどこにもない。自らにとって納得できる理屈とは、まさに自分に都合よく書き換えられた粉飾になっているかも知れないからである。
 そんなふうに言っちまったら、人間互いにバラバラで理解し合うことなど幻想だと言っているのと同じになってしまうから、もしかすると人間をどこまで理解できるかは最初から答えのない問いなのかも知れない。

 ただ政治でも宗教でも、国と国や民族と民族、いやいやそんなに大げさに考えなくたっていい、隣とのトラブルだとか仲間との相反や肉親の不信などなど、考え得る対立のほとんどすべてがその背景にそれぞれが信じているそれぞれの正義を譲らないことにあることを考えると、「納得」とは一体何なのだろうかと考え込まざる得なくなる。

 グルジア問題でアメリカはソ連の侵攻を批判しソ連は正当な行為であると反論しているけれど、その理屈のやりとりが実はアメリカがアフガニスタンやイラクに軍隊を配置し存続させている理屈とほとんど違わないことにどことない信頼の不毛さ、そして情けなさすら感じてしまう。そうした混乱が互いに「譲れない正義」の衣をまといながら世界のあちこちで多発し始めている。

 そんな世界情勢ばかりではない。例えば私がセザンヌの絵を見て「分かった」と思い、何かを「感じた」とする。夏目漱石の「こころ」を読んで理解し感動したとする。その気持ちに嘘はないかも知れないけれど、本当に理解し納得したのだとどこまで言えるのだろうかと自らに問い返してみると、とたんにその自信はぼやけ始めてくる。そうした理解はもしかすると以前に読んだり聞いたりしたことのある他者の解説や意見などに歪められた錯覚に惑わされた理解なのではないだろうか、更には例えば外国文学なら訳者自身の哲学や翻訳技術や意訳などに影響されているのではないだろうかとの疑問が湧いてくる。

 私がセザンヌや夏目漱石を分かったと言った場合、それが果たして自分の内心に向かって発信したのかどうかもはなはだ疑問である。こうした意思表示は多くの場合他者に向かってなされることが多いからである。自分自身にとってある事柄が「分かった」場合、人はその「分かった」との意思表示を通常どんなカタチで表現するだろうか。人は演ずる。どんな場合でも演ずる。時に自分自身に対してさえ演ずる。そして「ホントのこと」と「演じていること」の区別がいつしかつかなくなってくる。

 人はどこまで他者を理解できるのだろうか。「理解できる」と断ずるにはあまりにも多くの混乱がそのことを欺瞞だと示しているような気がするし、逆に「理解することなど不可能なのだ」と断じてしまうことは人の世に絶望しか残さないような気がしてしまう。
 最もよく理解できるのは恐らく自分自身であろうけれど、ただそれとても私にしてみればとてつもなく疑わしいことを否定できないように思えてならない。私は私をどこまで知り、そしてどこまで理解しているのだろうか。



                                     2008.9.10    佐々木利夫


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納得の背景