北京オリンピックの開催が明日に迫り、ほとんどの選手が現地入りしている。日本からの参加選手は過去最多の323人だと言われている。先週は壮行会とやらが各地で盛大に開かれ、政府も民間も地元も含めて「頑張れ、頑張れ」の大合唱になっている。そしてそれに呼応するように選手の意気込みもまたエスカレートしていっているようだ。

 つい先日行われた国が主催の壮行会だったろうか、選手宣誓の言葉に「・・・世界平和に貢献することを誓います」の一節があった。気持ちとしてまるで分からないと言うのではないし、恐らく主催者側からの間接的にもせよ何らかの要請があったからだとは思うけれど、「正々堂々と闘います」くらいなら特に違和感はなかったのだが「世界平和」には思わず苦笑してしまった。

 オリンピックが単なる世界スポーツ大会であることを超えて、得体の知れない怪物化していることを批判しようとは思わない。
 私が結婚したのは東京オリンピックの年であった。オリンピックに合わせて結婚したわけではないけれど、苫小牧に住んでいて近くの千歳空港に降り立った聖火リレーをわざわざ見物に行った記憶がある。そしてつい先日、市川崑監督の映画「東京オリンピック」の再放送を見て、当時の日本の生活みたいなものが見事に表されていることに新たな感激を覚えた。昭和39(1964)年のことだからあれからオリンピックの数で11回、44年が過ぎたことになる。そしてその数はそのまま私の結婚生活の長さでもある。

 明日が開会式である。聖火リレーをエベレストの頂上まで運んだり、開催日時を8並びの08年8月8日午後8時に設定することや、聖火の点火者やその方法を当日まで発表しないことなど、どことない幼稚さが感じられなくもない。ともあれ開会式は中国が国威を賭けてのセレモニーだと言われているから、世界を驚かそうとそれなりの意外性を持った仕掛けを考慮していることだろう。
 そして明後日から各種競技が始まることになる(正確には開会式の二日前、つまり6日の女子サッカーからではあるが・・・)。

 私がテレビを自分のものとして購入したのは結婚した東京オリンピックの年だった。それから十数回をテレビにしろ目にしてきたはずなのだが、それほど熱心に見てきたような実感はあまりない。それよりも最近はオリンピックに関連した報道の度にふと思うことがある。
 それは選手も含めたメダルへのあまりにも安易な発言である。金銀銅のメダルはその種目における世界での一位二位三位の証である。団体戦ならメンバーの数だけ同じメダルが授与されるされるだろうけれど、それはまとめて種目としては一個である。金メダルとは世界一であることを示すただ一つの証のはずである。

 そのことを参加する選手たちは本当に知っているのだろうかと時々疑問に思うことがある。もちろん知らないはずはないだろう。メダルを取ると言うことはその種目で世界の三位以内に入ることなんだと言うことくらい、幼稚園児にだって分かる道理だからである。

 ところがそんな当たり前のことを選手の一人ひとりがきちんと理解しているのかが最近よく分からなくなってきているのである。それは参加する選手の多くがあまりにも安易にメダル獲得を口にするからである。あまりにもメダル獲得への意欲をマスコミの前であっさりと公言するからである。

 私は選手が自身の気持ちとしてオリンピックでの優勝を夢見ることをどうこう言いたいのではない。全力を出し切ってメダルを目指す、そうした気概に水を注そうとも思わない。一つの目標としてメダルを掲げそこへ向かって血の滲むような努力を続けてきたのだろうし、そしてその努力の成果が今まさに世界の場で試されようとしているのだから・・・。

 でも私は思うのである。メダルを口にする彼等、彼女等は本当に世界一に届くだけの実力を持っていて、その上でそうした自分の意思を示しているのだろうかと・・・。
 実力が本番で思うとおりに発揮できるとは限らないだろう。競技に限らずどんな試合や試験だって、そこに思いもつかない魔物が住みついていることだってある。ならばメダルに力が及ばなかったならその魔物ゆえに悔しがればいい。

 前回も前々回もそれほど興味を持ってテレビに噛り付いていたわけではないけれど、人並みの関心はあったように思う。そしてまだ競技開始前なのだからこれは私の身勝手な思い込みに過ぎないのかも知れないけれど、これまでの例からするなら競技が終わった後のあのさわやかな選手の表情は一体なんだろうと、つい思ってしまうのである。

 メダルを獲得することが己に課した、そしてカメラに向かって宣言したそんなに強い目標であるならば、それが実現しなかったときには目標とした意思と同じくらいの強さで選手は自分の思いに恥じ入るべきではないのか、悔しがるべきではないのか。
 「全力を尽くしました。悔いはありません」、そんな一言で片付けられて済む話ではない。メダルを獲得するだけの力が本当に自分にあると信じていたのなら、それが実現しなかったことは心底悔しくて悔しくてたまらないはずだと思うからである。

 もちろんどんな場合にも実力が100%発揮できるとは限らない。ベストコンディションに持っていくために日夜血の出るような努力を続けてきたところで、それがそのまま結果に結びつくとは限らないだろう。
 だからこそ悔やんでいいのではないかと私は思うのである。実力が出せなくてメダルに届かなかったのなら、悔やんでも悔やんでも悔やみきれない思いを抱くことこそが本音ではないのかと思うのである。そんなにあっさりと、しかもにこやかに「後悔はありません」などと軽々しく発言してはいけないのではないだろうか。

 あのさわやかな表情を見ていると、私はいつも「この選手にはメダルをとるだけの力、つまり世界のトップを狙う実力など、最初から持ち合わせていなかったのではないか、そしてそのことは自分自身が一番良く知っていたのではないか」と思ってしまうのである。

 決勝で銅メダルを逃したというのならまだ分かる。しかし「予選敗退」の四文字は恐らく今回の競技でも数多く並ぶのではないだろうか。そして「メダルを取ります」と己の決意をのたもうた多くの選手の顔を見ながら、私は選手が宣言した「メダルへの意欲」そのものを疑うのである。単なる「行ってきます」の挨拶代わりのパフォーマンスではなかったのかと勘ぐるのである。メダルの獲得は「ないものねだり」であり、「僥倖待ち」や「たなぼた狙い」みたいなテレビカメラに向けた単なるリップサービスではなかったかと思ってしまうのである。

 日本が沈没してしまいそうになるほどにも大量のメダル獲得宣言があちこちでなされている。全部の種目に日本人が関わっているのかどうか確かではないのだが、全302種目、323人もの参加選手である。せめて「目標は自己ベストを超えることです」くらいに謙虚な気持ちを表しておいたほうが、基本的には自分の実力を自分の力で超えようとするのだから誰にでも理解できる範囲の自信の宣言に納まったのではないだろうか。それに自己ベストが仮に世界的な規模でメダルを狙えるような水準に達しているのだとするなら、これはまさしく謙虚さを添えたメダル獲得宣言を実質的に示していることになるであろうからである。

 自他共に世界水準に達してると認められるほどの実力を持ち合わせているのならまだしも、仮にそうでないならわざわざ結果の「予選敗退」の四文字に顔赤らめるような宣言など始めからしないほうがいいのではないかと、へそ曲がりはつい余計なことまで考えてしまうのである。
 それとも今時の若者はこの程度の言行不一致に恥じらう気持ちなど、最初から持ち合わせていないのだろうか。



                               2008.8.7    佐々木利夫


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メダル宣言と予選敗退