子どもの頃、音楽を聴くというのはラジオを聴くことでもあった。蓄音機にレコードというスタイルを知らないではなかったけれど、両方とも高価だったし両親にも近所にもそうした趣味はなかったらしく高校を卒業してもラジオが頼りだった。

 高校を出て税の職場に就職したが、最初の一年間は講習所での研修であった。そこで教諭から課外に聞かされたベートーベンの交響曲運命のレコードが私のクラシック開眼のきっかけになった。それ以来私の聞くラジオの音楽番組はクラシックが多くなったのだが、ラジオには番組表に拘束されるという絶対的な不便さがあったことは否めない。

 ところで、NHKのラジオ放送には現在でも第一放送と第二放送があるが、我が青春のみぎりにはこの二つの放送帯を同時に利用してステレオ番組が放送されていたなんてことをあっさり書いてしまうと、それこそ思い出が歴史に変ってしまうことにもなりかねないけれど、本当のことである。
 ともあれ好きなときに好きな曲を聞きたいなどと思うようになってくると、ラジオにはどうしても不満が残る。

 昭和30年代、音楽はレコードの時代であった。SP版と呼ぶ片面約5分前後録音された黒い円盤に金属の針を落として聞くのが一般的だったが、私の年代になるとLP版と呼ばれる直径30センチばかりのプラスチックの円盤に片面30分以上も録音されているものが全盛となった。

 もちろんこのレコードを聞くためには、いわゆる電蓄(電気蓄音機の略である。この言葉自体に懐かしさを感じてしまう歳になった)やステレオ装置が必要であり、ステレオだからアンプは一つでいいけれどスピーカーは二つ必要であった。自前のステレオプレーヤーを少ない給料をはたいて買った。シャルル・ミンシュ指揮ボストン交響楽団、ベートーベンの第五番と第九番が二枚セットになった半透明で赤いプラスティック製の30センチLPも手に入れた。私にとって音楽が回転するものになったのはこの時からである。

 ターンテーブルと呼ぶ丸い台に静かにレコードを載せ、決められた回転数でこれを回す。LPは一分間に33回転、SPは78回転だったと記憶している。アームに取り付けた水晶製だと言われている針先を静かにレコードの一番外周の溝に落とす。針先が溝をこすっていくほんの数秒を置いて、針先の拾う振動が名曲となって流れてくる、これが我がクラシックであった。

 私が手に入れた順で言えば、このレコードより少し遅れてテープレコーダーが普及し始めた。最初はオープンリール方式と呼ばれるもので、直径20センチもの円形のリールに巾1センチにも満たない磁気テープが数百メートルも巻かれており、これを巻き取り側のリールに定速で巻き取りながら録音したり再生したりするものであった。二つの円盤を回しながら聞く音楽は、音楽を聞くという作用と共に回転する装置のメカニックな動作そのものにどことない満足感を覚えたものである。

 やがてこのオープンリール方式はカセットテープに駆逐されていくのであるが、カセットテープといえども理屈の上ではオープンリールと同じであった。テープを供給する側と巻き取る側が一つの小さな箱に納められているだけのことだから、くるくる回りながら録音し再生していくのである。

 レコードの時代がどれくらい続いただろうか。いつかそれはCD(コンパクトディスク)と呼ばれる銀色、そして光の加減によっては虹色に輝く直径約12センチ、厚さ数ミリのドーナツ型の円盤に取って代られていった。しかもその円盤は片面しか録音されていないのだがレコードをしのぐ1時間以上もの内容が収録されていた。
 レコードのように針は必要はなかったし、また裏返す必要もなかったけれど、プレーヤーにセットしてこの円盤を高速で回転させながら再生していくシステムは、イメージとしてはレコードとそれほど変るところはなかった。

 CDは今でも健在ではあるけれど、カセットテープが普及し始めるにつれてウォークマンと呼ばれる持ち運びのできるポケットサイズのテープレコーダーが普及し始めた。CD用にも同じような機械が開発されたけれど、携帯するにはサイズがやや大き過ぎたらしくそれほど普及はしなかったようだ。

 やがてMD(マイクロディスク)と呼ばれる約6センチ四方、厚さ5ミリばかりのプラスチックケースの中に小さなCDによく似た円盤を内蔵させたものが出てきた。それは録音も再生もでき、収録時間は80分もあった。これなら再生のためのマシンを加えてもワイシャッのポケットに軽く入る大きさだったし、MDそのものがカセットテープよりも小さく軽かったから何枚も手軽に持ち運びができたこともあってカーステレオなどにも普及していった。

 音楽の媒体が回転したのはこのあたりまでだったような気がしている。MDといえどもケースの中に入ってる円盤を回転させて信号を読み取るものだったから、意味がまるで違っていることは承知の上だけれど、見かけ上はレコードと類似していたからである。

 携帯電話が老若男女を問わず世の中を席巻し始めると、電話がかかってきたことを知らせる信号に音楽が使われるようになった。いわゆる着信音の設定である。そして間もなく携帯電話そのものが音楽を聞くためのウォークマンのような機能を持つマシンへと変身し、更には音楽を聴くためだけの装置の開発へと時代は進化していった。

 携帯電話などへの音楽の保存はこれまでのような回転するテープやCDなどとは違い、メモリーと呼ばれる単なるICチップへのデジタル方式の録音であった。もちろんレコードだってCDだって、はたまたテープのような長い帯だって、結局はその表面に音楽のデータが記録されていたのであり、回転させたのはその記録を媒体の円周に沿った螺旋の溝を利用するか長いテープにするかだけの違いだったに過ぎない。

 ところが媒体であるICチップの記録密度が極端に高くなり、しかも安価になった。しかも音のデジタル化は音信号の圧縮技術の進歩もあって親指の爪ほどの薄いチップに何時間、場合によっては数百時間もの音楽を記録することが可能になったのである。長いテープを利用したり、ぐるぐる巻きの音の溝みたいなものを考慮する必要がなくなったのである。全く新しいデジタル携帯プレーヤーの登場であった。

 そして私も最近デジタルプレーヤーを手に入れた。mp3と呼ばれる音楽データの圧縮技術を使ったプレーヤーでCDよりも音質はやや劣るらしいが、それほどデリケートな耳を持ち合わせていない身にはその差を聞き分けることなどできないからこれで十分である。1G(ギガ)バイトのメモリーを持ち、パソコン経由でCDから音楽を取り込む方式で、重量僅か25g、価格はなんと2千数百円であった。

 そしてこの1ギガというメモリーには1曲分の再生時間を5分として、恐るべし200を超える楽曲が収録可能なのである。メモリーは驚くほどの速さで価格を下げており、しかもどんどん密度を高めて小型化していっている。外形的に同じサイズでも中味が1ギガから更に増えていっている。もし仮に10ギガのメモリーが内蔵されたプレーヤーがあるとしたなら、そのポケットライターみたいな小さな装置の中にはなんと二千数百曲もの音楽を入れられることになるのである。CD数百枚もの内容が胸のポケットに収まってしまうのである。

 最近はこのmp3プレーヤーを首に吊るしながらの通勤になった。小さな乾電池一本で、全曲演奏、1曲繰り返しなどなど実に良く言うことを聞いてくれる。歩きながらはイヤホーンで聞くことになるけれど、このプレーヤーをパソコンに差し込めばそのまま外部演奏としても聞くことができる。こうしたメモリーに対応したステレオプレーやも発売されたと聞いたことがある。
 ケースから指紋がつかないようにそっと取り出し、ターンテーブルに載せて静かに針を落とすレコードの時代は確実に終わりを告げた。今や回転音さえ聞こえない、聞こえないのではなく回転しない、昔は回転したことの記憶すら残していない音楽が街中に広がってきているのである。

 そのことは同時に音はゴミになっていくことでもあった。私の持っている数百ものカセットテープは、再生装置であるテープレコーダーが壊れてしまった今、単なるプラスティックのゴミの塊となった。もちろんテープレコーダはまだ商品として販売されているけれど、デジタルプレーヤー全盛の時代それを新たに購入する気力もなくなった。もちろんテープからパソコンを使ってCDへ、そしてこのデジタルプレーヤーへとダビングすることも可能ではあるけれど、音楽媒体の変化はそのままそうした媒体への愛着、内蔵されている音楽そのものへの愛着みたいなものまで喪失させてしまっていくようだ。

 ところで、この回転しない音を手に入れてみて、どことなく落ち着かない気持ちになっている。それは「どうして音が出るんだろう」という単純な気持ちである。
 音楽とは時間の流れである。変化する音色やリズムが時間軸に沿って流れて始めて我々に音楽として、更には曲として聞こえるものだろう。

 回転する音楽の場合は、レコードなら針先へ、テープレコーダならテープの通過するヘッドと呼ばれる部分へ記録された音の変化という記録された事実が一定の時間間隔で繰り返されることになる。その変化を我々はまさしく曲だと思うのである。

 ところがこのメモリーのみで回転しない媒体には、そうした時の変化を告げるような仕組みがどこにもない。レコードの円盤が動くのでも、場合によっては針先そのものが円盤の上を音を探して動き回るのでも、それは相対的なものだから、どちらにしても新しい音のデータが針先を訪れるという意味では曲を再生する仕組みは理解しやすい。だが動く部分のないメモリーから、どうして音が出てくるのだろうかとの思いはなかなか消せないのである。

 音の変化としての曲、そして変化としての時間の流れをどうやってコントロールしているのか、私はこの小さなメモリーを前に、一昔前に流行った「地下鉄の電車はどうやって地下に入れたんだろうか」をウリにしていた漫才を思い出しているのである。

 そして、ふとレコードに離れることなく付きまとっていた音楽が始まる前の、あの針音が拾う静かな擦過音をどこか懐かしく思い出しているのである。オープンリールのテープもレコードも、私の書棚の奥でひっそりと埃を被ったままになっている。回転する音楽とはもしかしたら昭和の名残りを告げているのかも知れないと私はふと感じ、恐らくはその音が私の耳に届く機会などこれからも訪れることはないのではないだろうかと感じている。



                          2008.3.25    佐々木利夫


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回転しない音楽