昨年の暮れだっただろうか、NHK教育テレビの「わくわく授業」を見ていた。楽しくてためになる授業風景を紹介する番組だが、その講師が中学生にカップラーメンとおにぎりの絵を見せて「これをどう思う」と問いかけた。

 見ていて生徒全員の答えは始めから「おにぎり」に決まっているだろうと思い、そしてその通りの結果になった。なにしろ授業をしているのは栄養担当の教諭で、この授業のテーマは既に野菜をたくさん食べよう、バランスの良い食事をとろうだと決まっていたからである。そして講師は教室に野菜を大量に持ち込んでの熱演であった。その熱意やよし。授業の意味も内容も目的も余りにも良く分かる設定である。

 だがどうしたってこれは「やらせ」であると私は思った。先生にも生徒にもそこまでの意識はなかったかも知れないが、それでもこの授業は結論が先にあってその結論に向かって心理的な誘導をしていく間接的な「やらせ」ではないかとおもったのである。

 その授業が「やらせ」でないかと思ったきっかけは、講師が最初に「カップラーメン」と「おにぎり」の絵を並べたからである。そしてその二つの絵の中から「おにぎり」を選ぶように無意識にせよ仕向けていることがどことなく匂ってきたからである。こうした設定の下では生徒は決して「カップラーメン」を選ばない、いやいや選べないだろうと思ったのである。

 どっちの絵を選ぶかについてテレビ撮影に当たっての演出があったと思っているわけではない。だが栄養担当の教諭が講師となる授業があり、その授業風景を撮影すべくテレビカメラやそのスタッフが教室に入っているのである。そして授業はバランスの良い食事がテーマである。もしかしたら撮影準備のために教室へ多くの野菜を持ち込むところを生徒は見ていたかもしれない。

 さて、こうしたお膳立てというか雰囲気の中で生徒に二つの絵から一つを選ばせる手法が、本当に生徒の実感というか本音を引き出す手段として正当なものだと言えるだろうか。
 授業はいかにも生徒が自主的に選択したように進んでいく。カメラを向けられマイクを突きつけられた生徒はにこやかに答える。その答に外部からの操作や演出や誘導があったとは思わない。でもカップラーメンの絵を選んではいけないことを生徒は既に十分に知っている。それは番組の編成経過や目的からくる心理的圧迫だからである。選択肢は二つから一つを選ぶのではない。始めから一つに決まっているのである。「おにぎり」を選ばなければならないように場面設定がなされているのである。最近の流行語で言うならばその選択はあからさまなKY(空気を読むこと)によるものなのである。

 私は別に「おにぎり」が不味いはずなので生徒の選択結果が変だというのではない。そうではないけれど中学生が本当に自由に自らの好みで選択したのならば、これは私の勝手な思い込みでデータも根拠もないのだけれど、食べたいと思うのは「カップラーメン」の方ではないかと思うのである。少なくとも全員一致で「おにぎり」になること自体あり得ないのではないかと思ったのである。

 授業の目的を野菜をたくさん食べようとする方向へ持って行きたいと願う講師の気持ちが分からないというのではない。でも子どもたちが現にハンバーグだのカップラーメンだの果ては菓子パンを好むこと、更には朝食を食べないまま登校する子さえいること、時にコンビニで買い食いすることすらあるという現実を思いっきり省略または無視して授業を進めていることにどこか変だなと感じてしまったのである。

 子どもたちがそうした、いわゆる「おにぎり」に象徴される健康で正当(と思われている)食事以外の食べ物に惹かれているという現実は否定のしようもない事実である。
 そうした原因には恐らく一番単純に「おいしいこと」があり、「手軽であること」や「手間をかけずにお金で買える」こと、「朝起きるのが遅いこと」、「食べる手続き(両親の目の前でたべる、箸を使う、好き嫌いを指摘されるなどなど)が面倒くさいこと」などがあるからだろう。

 そうした子どもたちの好みというのか食習慣に対して、例えば「栄養が偏っている」だとか「炭水化物ばっかり」、「ビタミンが足りない」、「野菜などからの食物繊維が少ない」などなどの正当論をぶつけるだけでは答えにならないのではないかと思うのである。

 そうしたとき講師は授業のきっかけを二つの絵から一つを選ぶという方法の中に見つけたのだろう。この方法を使えば、何の強制も無茶なこじつけなどもなしに子どもたち自らが選んだ結果を使って教師が進めたい方向への手がかりが得られると思ったのであろう。
 子どもたちがもし仮に「カップラーメン」を選んでしまったら(その可能性は現実には十分あるのだが)、講師は次に進めるため、更にはこの授業の本来の目的である(はずの)正しい食事方法を教えようするステップへの手がかりを失ってしまう。

 だからそんな選択には決してならないように子どもたちを誘導したのではないかと思うのである。それも決して誘導とは分からない方法でである。まさに空気を読めるようになった中学生を、テレビだの野菜だのといった小道具を使って誘導したのだと思うのである。

 そして私は思ったのである。そんなことで子どもは野菜を食べるようにはならないだろうと。「野菜を食べることで健康になろう」をいくら正論で語ったとしても、食べるかどうかを決めるのは正論よりもどちらかと言うと「好きか嫌いか」である。
 手軽でおいしくてお金で買える食べ物が目の前にあったとき、ひとはそれを拒否して正論たる野菜に手を伸ばすかどうか、そうした行動を長く続けていけるかどうかはかなり疑問である。人は栄養や正論でばかり食生活を律しているわけではない。それは子供だって同様だとおもうのである。

 どうして子どもたちはハンバーグやカップラーメンをおいしいと思うのか、どうして朝食を食べないのか、どうして食べることが面倒くさいのか、そうしたところをきちんと解決してからでないと野菜が持っている食への正論が子どもたちの心に届くことはないのではないだろうか。

 だから誰に強制されたのではないにしても、こうした回りからの心理的な囲い込みが結局いわゆる「やらせ」を生んだのではないかと私は思い、そのことが私にこのテレビ番組にどこか嘘っぽさの匂いを感じさせた原因なったのではないかと思ったのである。



                          2008.1.8    佐々木利夫


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カップラーメンとおにぎり