ならば自宅ならそんなことはないかと言うと、私の物臭が女房にうつったのか、それとも女房の無関心が逆に私に伝播したのかそこのところは明らかではないのだが、我が家にもそうした気配はない。時々女房は小さな鉢植えなどを買ってきてはベランダに一個二個並べていることもあるようだが、いつの間にか枯れた姿をさらしているのを見ることが多い。

 それがつい一ヶ月ほどまえのことである。何を思いついたか、事務室に昼飯代わりにでも食おうかと買ってきたサツマイモの切れ端を小皿の水に浸して窓際に置いてみた。芽が出るかと、そんな興味があってのことではあったのだが、一週間経っても10日経っても少しもその気配がない。皿の水にはうっすらと埃が溜まりだしてきたがそれでも芋には何の反応もない。

 しかし途切れ途切れながら10日も水遣りをしているとどことない愛着と言うか、意地みたいなものを感じてくる。つまり「こんなに毎日面度見てやっているのだから少しは返事くらいしろよ」、そんな心境である。そして更に数日、皮の凹み部分からふくらみが見え始めた。と見ると、皿の横からはみ出すように白い筋のようなものも見えている。どうやら芽と根のようである。私の呼びかけにやっとサツマイモは反応してきたのである。

 さてこれからどうするか。ここへ来てはたと迷いだす。このまま芋として食ってしまうのも手だけれど、だからと言ってこの小片が腹の足しになるわけでもない。しかも10日以上水に漬けたままで埃まみれの物体に、食欲の湧こうはずもない。
 生ゴミとして捨ててしまおうか、その選択肢も十分可能である。週に二回の燃やせるゴミとして事務所の外のゴミ置き場に他のゴミと一緒に袋詰めしてあっさりと始末してしまうことはもっとも安易な処分方法である。だがしかし、一応芽出しを目論んだのだから芋の表面が少しふくらんできただけで捨ててしまうのはどことなく心残りである。もう少し様子を見てもいいだろう。

 様子を見るのはいいけれど、薄く水を張った皿の上に芋を置いておくと言う方法は、少し出かかってきた根にとってどうにも窮屈そうに思えて仕方がない。芽は上に向かって伸びるだろうからいいけれど、どうせなら根だって気ままに伸ばしてやりたいではないか。それで水耕栽培のことを思い出した。水耕栽培とは水のなかに必要な栄養を補給しながら野菜などを育てる方法だから、事務所で水道水だけで芋を育てるのとは訳が違う。
 そうは言っても途中で栄養不足で枯れてしまうのならそれはそれで仕方のないことだろう。百円ショップでひょうたん型の首が凹んで口が少し広がった小さなガラスの容器を見つけた。この広口の少し下のくびれ部分に丁度はまるようなインスタントコーヒーの空き瓶の蓋を見つけた。その蓋に千枚通しや釘などを使って大きめの穴をいくつか開け、ひっくり返して水を張った瓶の凹みに置くと丁度水が蓋半分くらいにひたひたになることが分かった。

 さてその上向きの蓋の上に少し出てきた根らしきのもののいくつかが穴から通り抜けられるように注意してさつまいもをそっと置くことにした。さてそれからの成長の早いこと。最初にさつまいもを置いたのは7月の6日だった。瓶には水が一杯に張ってあるのだから一日や二日水遣りを忘れても枯れてしまうようなことはない。あっと言う間に数センチの芽が伸びだした。それも三箇所からである。

 ここまで期待に応えてくれるとなると、水遣りにもそれなり張り合いが出ようというものである。数日にしてはっきりとつる状に伸びていることが分かるようになり、しかもそのつるのところどころから小さな葉も出てきた。最初、つるは真上に伸びていったが、30センチほどになってくると自らの重力によるものか少しずつ傾いてきた。窓際に置いているので、外側から窓ガラス、レースのカーテン、サツマイモのつる、そして室内の順になっている。帰り際につるの先端近くを示すレースのカーテンの位置に爪楊枝を刺して翌朝までの成長を確かめることにした。なんと恐るべしその速度は一晩で3cm以上にも及ぶではないか。

 水以外与えてはいないのだが、そもそも芽の出たサツマイモ本体に含まれる栄養がたっぷりなのだろう、毎日毎日目に見えるようにつるは伸びていく。つるはいよいよ横に這い出すようになってきた。仕方がないので支柱を立てることにした。外の畑なら細い棒でも立てるのだろうがここは室内である。とりあえずマッチの軸程度の太さのつるなので、そんなに丈夫な支柱の必要はない。机の中にあった木綿糸を思い出してカーテンレールからガラス容器を置いてある机までそれを張ることにした。

 糸に軽く添わせたつるは、助け舟を得たとばかり真上に伸びだした。今ではその高さは75センチを超えている。ガラスのコップでの水栽培である。水の減りようはすぐに分かるし、その減り具合はまるで水欲しさを叫んでもいるようで、目に付くとどうしたって水遣りが気になってしまう。

 その75センチのつるには今では9枚もの葉がついていて、窓越しながら日光を受けて元気に緑色に輝いている。成長の栄養はサツマイモ本体から得ているのだろうが、いまのところ芋そのものに衰えは見えないようだし、根もコップの中で縦横に絡み合いはじめている。

 間もなく背丈は1メートルを超すことだろう。それはカーテンレールを超えることを意味するから、それ以上は支柱たる糸を伸ばすことのできない事実をも示していることになる。

 子供の頃の授業を思い出した。葉の中では恐らく葉緑素が二酸化炭素を使って澱粉を作り続けているのだろう。作られた澱粉は今は自身の成長のために使われているのだろうが、やがて実へと貯蔵を始めようとするようになるだろう。
 収穫の楽しみの一つには子孫の承継みたいな思いもあるだろうけれど、直接的にはその実りが植えた種よりも増加していることにある。そうした意味ではこの両者とも含めてこの場に収穫の楽しみは期待できるとは言えない。ジャガイモの実は茎が変化したものだけれど、サツマイモのそれは根だと聞いたことがある。だからと言ってこのグラスの中の絡み合った根の一部でサツマイモが実るであろうことなどまるで考えられない。

 ジャガイモなら北海道のあちこちで見かけるけれど、サツマイモは栽培されていないだろうし、まして「ベニアズマ」と呼ばれるこの品種に関して、畑でどの程度の高さまで成長するのか、花は咲くのか、どんな花なのかなどなどその行末の見当すらつかない。

 成長に比例して貪欲になっていくのか、ガラス瓶の水位は毎朝確実に私に渇きを訴えている。別にこのサツマイモが生きていることを確かめさせられていると言うほど切実な思いでもないのだが、それでも成長する姿は生きていることの証でもある。私は食材としてのサツマイモを、成長する植物へと切り替えてしまった。成長とはまさに生きていることそのものでしかない。

 「朝顔に つるべ取られて もらい水」は有名な加賀の千代女の句だが、とりあえず私の窓辺のカーテンはこのさつまいものために開けることができないでいる。そのことに特別な不便はないけれど、この先どうするのか、どうしたらいいのか、それ以上にサツマイモ自身がどうなっていくのか、いささか困惑の状態と多少なりとも命にちょっかいをかけてしまったような、そんな後ろめたさが続いているのである。



                                     2008.8.18    佐々木利夫


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さつまいも水栽培
  

 事務所なら普通は玄関先などに観葉植物の一鉢くらいは置いてあるものだが、もともと家の中で植物を育てたり犬猫はおろか金魚や小鳥なども含めて動物を飼うことのあんまり好きでない性格もあって、言って見れば我が事務室には無機質・無生物状態が開設当初から続いている。
 別に花や金魚が嫌いというわけでもないのだが、毎日の手入れや、夜は無人になって手入れが行き届かないなど(いささかこじつけか)もあって手が出ないでいる。