国連総会が死刑の執行停止を求める決議案を賛成多数で採択した(’07.12.18)。少し前に法務大臣がこれまで公表していなかった死刑執行がなされた者の氏名を始めて明らかにしたこともあって、日本でも死刑廃止の議論が起きてきている。

 そうした議論が巻き起こること自体を否定しようとは思わない。むしろ議論することが望ましいことだとすら思っているのだが、昨年の暮れの新聞で著名な刑法学者の「死刑廃止なくして裁判員制度なし」と題する論述(新聞社記者との対談形式)を読んで(’07.12.20、朝日)、何となくその説得力のなさに割り切れないものを感じてしまった。

 論者は「団藤刑法」と呼ばれたこともあるほど著名な刑法学者で、最高裁判所の判事を経験したこともある団藤重光氏であった。

 彼の考え方の根拠は新聞を読む限り「およそ死刑は頭から反対です。・・・人間の命は神様に与えられたものだからね。人間の根本の権利に反する。」を背景に、「『死をもって償う』というのは自分から命を絶つのであって、刑罰として人の命を奪うことと混同するのは、少々教養がないね。」と続け、そして「(家族や親しい人を殺されたら、犯人を殺したいと思う感情を持つのは)当たり前ですが、そうした『自然な感情』を持つのと、それが国が制度として、死刑という形で犯人の生命を奪うのとは、全く違うことです。」と語る。

 恐らく論者の意見はこの記事の見出しに掲げられた「感情と国が命を奪うことは別」に集約されるのではないかと思う。そして(世論調査では『死刑存置』が多数です。政治家は世論に従うべきだとは考えられませんか)との問いかけに対して、「政治ってのはそういんもんじゃない。民衆の考え方に従いながらも指導しないと。」と言い切る。

 まあ、衆愚政治からの脱却みたいな意見の分からないではないけれど、大衆の考え方を論証なしに間違っていると断じそれを善導するのが政治なのだと言い切ってしまうような姿勢にはどこか傲慢で国民を見下しているような気配さえ感じてしまう。

 それはまさにこの記事のタイトルにある「感情と国が命を奪うことは別」に表われているのではないかと思う。ここで言う「感情」とは国民そのものの思いを指している。それは論者の言う「犯人を殺したいと思う感情」であり、しかもそれが「自然な感情」であることを承認し理解した上での国民の感情のことである。

 法曹界の重鎮の意見に法の淵源などをもっともらしく語ったところであっさりと反論されてしまうだろうが、法は結局住んでいる人たちの慣習から出てきたのではないかと私は思うのである。恐らく「法」のない時代、被害を受けた者の報復は自力で行うしかなかったのではないか。法整備がきちんとできてきて、個人の報復に代って国がその役割を担うことが法治国家の成立であり、そうした制度に対して国民は国を信頼するよすがとしたのではないだろうか。

 「国民の自然な感情」を死刑に結びつけるのが誤りだと断ずるのなら、論者はそうした自然な感情の発露そのものが誤りであることを国民に説得しなければならないだろうし、「自然な感情」そのものを「自然ではない、自然であってはいけない」ことを理解させなければならないのではないか。
 単に命の重さみたいな答だけの理屈を振りかざすだけでは、殺された者の命の重さをどうしてくれるんだとの反論の前には何の説得にもならないだろう。殺した者の命と殺された者の命の違いであるとか重さなどの意味をどこかできちんと整理して説得しないと、単に命は重いとする理屈だけで人は決して納得しないと思うのである。

 西部劇程度の気楽な映画でしか知らないのでそれを根拠に持ってくるのはいささか空論に過ぎるかも知れないが、アメリカ開拓の歴史の一つにリンチ(私刑)がある。つまり制度として警察であるとか裁判所などがきちんと機能していない場合、犯罪に対する処罰は結局地域の自警団みたいな組織であるとか、住民の個人的な報復としての恣意的なリンチなどに委ねるしか方法がなかったのかも知れない。

 「眼には眼を、歯には歯を」は報復を認めたのか、それとも報復の限界つまりバランスを示したのかは諸説あるらしいが、我国のような農耕を中心とした定住性の高い民族の発想ではなく、狩猟を中心とし住居を移動させていく牧畜民族としての特性、つまりその場で処理しないと被害者も加害者もともに散らばってしまって再び出会うことなど望むべくもないという生活環境がその背景にあったからだと聞いたことがある。だからこそ被害と同程度の加害を目的とした報復のシステムがその民族に納得できる制度として定着していったのではないのだろうか。

 私が言いたいのは、刑法というものの背景にはそうした私的制裁の歴史があり、その上に私的な制裁を禁止し法に基づく制裁の公平化、均質化を求めた国民の意思の表れがあったのではないかと思うのである。人が人を裁くことは様々な問題を抱えることだろう。100円盗まれた報復に相手を殺すような場面だって過去になかったとは言えまい。そうした個々人の報復の意思の集約が、特定の地域や民族などを拘束する刑法典として成熟していったのではないかと思うのである。
 だから刑法にはそうした国民(もしくは大衆)の犯罪に対する報復たる自然な感情の集約の意思が含まれているのではないかと思うのである。

 そうした国民の感情は、まさに感情であり理論ではないかも知れない。だが論者だって犯人を殺したいと思う感情を「自然な感情だ」と認めているのだから、そうした感情を否定するには長い法曹生活の中から培われてきた説得力ある理屈をもう少しきちんと述べてもらいたかったと残念に感じている。

 そして裁判員制度についても、「市民が参加したら誤判の確率も高くなるとお考えですか」の問いかけに対して、「それはそうですよ。ジャーナリズムが『被害者は、こんなにも悔しい』とむき出しの感情を流していては、国民は法的な判断力を持てないままになる。そうした国民が出す判決は、それだけ間違う可能性も高まります」と答えている。

 誤判の問題が死刑制度の根幹を問うものであることに異論はない。命が一つであることは誰もが認める否定しようのない事実だからである。そうした意味で論者の意見は一つの説得力を持つ。
 だがジャーナリズム、つまりマスコミの情報に裁判員が流されて間違った死刑判決を言い渡す可能性があることを裁判員制度そのものに結びつけることは、素人は裁判に向かないと断じ司法の正義は象牙の塔の中にこそあるという間違った方向へと誘導してしまうことになるのではないだろうか。

 人が人を裁くものである以上誤判の可能性を否定することはできないかも知れない。それは裁判員や陪審員に特有なものではない。だが刑事裁判の歴史は死刑に止まらずどんな罪にしろ、誤判を避けるための努力の歴史でもあったのではないのか。いやいや刑事裁判に限るものではない。民事裁判にだって誤判は絶対にあってはならないことである。

 だから誤判の存在は「誤判を根絶する」方向へと向かうべきであり、誤判があるから判断そのものをしないというような方向へと向かうことは誤りなのではないだろうか。「借りたんだからきちんと返せ」との間違った判決が出て、無一文になり塗炭の苦しみやまたは自殺に追い込まれるほど被告人が苦しんだとしても、それは死刑のように命そのものを奪う判断ではないのだから許容せよとでも言うのだろうか。
 だとするなら、それは誤判を理由に死刑制度を論ずるのではなく、「人の命」の問題として捉えるべきものではないのか。
 私は論者団藤氏の意見からは最初から結論ありきの単なる「命は重い」とする感情論、情緒的な思い込みしか感ずることができなかったのである。

 彼が最高裁判事の時に高裁の下した死刑判決に対する上告を破棄したとき、傍聴席から「人殺し」との叫び声が上がったとこの記事は解説していた。その叫び声は彼の心のずしんと響いたかも知れない。そしてその心の痛みは仮に死刑制度がなければ回避できたであろうことを否定するつもりもない。だがその事実が死刑制度を廃止すべき理由にはならない、なってはいけない、してはいけないと思うのである。そうした判断する裁判官や裁判員の内心の葛藤のために刑罰の軽重があるのではない。

 恐らく彼とても、死刑廃止の代替措置として自力執行(個人が個人へ直接復讐すること)を認めようとするのではあるまい。だとするなら、なんの説得も慰撫もなくそして国家による代替措置などもなしに被害者や家族などが抱く「自然な感情」は一体どこへ向けていったらいいのだろうか。

 私は死刑制度は刑法の最後の砦として、そしてそれが人間本来の自然な感情であることを承認しつつ誤判を根絶するための手続きであるとか構成要件を厳しくしていくなどの法的整備などはともかく、制度としてきちんと残しておくべきではないかと思っているのである。



                          2008.1.10    佐々木利夫


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死刑廃止と裁判員制度