人はそれぞれだから知っていることだって人により様々だろうし、恐らく知らないことのほうが知ってることの数十倍、数百倍も多いだろうことも事実だろう。ただ、最近のクイズ番組や若者への街頭での質問などの報道を見ていると、知らない結果に何の感情も持たない人々、つまり「知らなくても平気」でいる人や知ることに無関心な人たちがどんどん増えてきているような気がして、どことなく不安になってくる。

 私自身こうして気まぐれながら毎日のようにエッセイ作成に向かっていると、作るはしからその作品が己の無知をあからさまに証明しているような気がしてくるのは疑いようもない事実である。だからと言って「知らないことが恥」だとは必ずしも思っているわけではない。
 ただ「知らないこと」の存在は、自分をゆっくりと見つめる機会を与えてくれる貴重なきっかけでもある。だとするなら「知らなくても平気」であることと、「知らないことが恥だとは思わない」こととはまるで違うのではないかと感じているのである。

 NHK教育テレビに、一年位前からだろうか「知るを楽しむ」と言う番組が登場した。「この人この世界」、「私のこだわり人物伝」、「人生の歩き方」、「歴史に好奇心」の四つの大きなタイトルに分けて、ある特定の人物や事件やドラマの作中人物などをとらえ、4〜6回くらいに分けてその思想や歴史や背景などを探ろうとする番組である。

 この番組は平日に毎日放送されるのだが、見終わると夜中近くになることもあってまともに付き合うには多少しんどいものがある。ところがそんな私のような人のために再放送がある。
 毎朝8時半に自宅を出て歩いて事務所に着くのが9時半少し前、少し汗ばんだ身体をシャワーにさらすのが冬も含めて日課になっている。トイレ兼用のバスルームの中で多少体操じみた動きも含め、ゆっくりとした入浴時間が終わるのは10時少し前である。汗が引いて10時からのHNKニュース5分を見終わると丁度この再放送が始まるのである。

 この番組は本当に私を知らない世界へと誘ってくれる。もちろん出てくる内容の全部が私の興味をそそるとは限らない。知らないことについてだって興味のある分野とあまり関心のない分野があるのは、私のこれまで過ごしてきた人生の中で得られた多少の知識がその分野に対する関心に影響を与えているからであろう。
 そしてこれも私の持論なのだが、だからこそ若いうちに雑学でもいいし、聞きかじりでもいいし、指に唾して触る程度でもいいから、可能な限り多くの分野に触手を延ばしておく必要があるのだと思っている。そうしないとどうしても興味が狭い分野に限定されてしまい勝ちだと私の経験が教えているからである。

 興味を持つのは別に若いうちとは限らないだろうと思うかも知れないけれど、私の実感からするなら若いときに少しでも触ったものでないと、年齢を経てからではなかなか新しい分野に入り込むことは難しいように思えるのである。
 もちろん興味を持てたからと言って、なかなかどうしてそれがどうなるものでもない。新しい興味の発見が私のこれからの人生に影響を与えるのかと問われれば、残念ながらこの年齢になってしまうと頑迷固陋がすっかり身についてしまっていて、多少どころかかなり強烈な刺激に対しても鈍感さが先に立つ。

 「知るを楽しむ」ではないのだが、ここ数年私が付き合っている番組の一つに「サイエンスゼロ」がある。週一回の放送で、以前は金曜日の夜7時からの放送だったのが現在は真夜中に代ってしまっているのでこれも再放送に頼らざるを得ないのだが、先週は「粘菌」の話だった。特に「粘菌」に興味があるわけではないのだが、科学番組は比較的好きな分野なのでこの番組も欠かさずに見せてもらっている。内容は粘菌の持つ単純だが特別な性質が、人間の脳の仕組みや複雑化するコンピューターの単純化などへの道へつながらないかを探ろうとしている研究の紹介であった。

 その研究にも興味はあったのだがその中で、博物学者(彼をそんな風に呼んでしまうのはどこかすっきりしないものがあるのだが)南方熊楠(みなかた くまぐす、1867〜1941年)が非常に熱心にこの「粘菌」の研究に取り組んでいたとの場面が出てきたことにいささか驚いた。
 南方熊楠については「非常に博学な天才で民俗学や博物学など多方面の研究がある」程度の非常に雑な知識しかなかったし、彼の著作などに触れた記憶も実を言うとない。それはそうなのだが、南方に抱いていた私の知識が、この「粘菌」の研究と言うイメージとはまるでかけ離れていたことがどこか気になったのである。

 まぁ、言ってみれば「ああ、そう」で済ませてしまえる事柄ではある。南方熊楠が文化人類学についての造詣が深かろうと、粘菌に特別な興味を持っていようと、それが私の生活や考えに影響を与えるわけではないだろう。それはそうなんだけれど、それでも「粘菌」というテーマについて私が余りにも無知であったこと、そしてその研究に「私の知っている南方熊楠が関わっていたこと」などまるで知らなかったことが、どこかで私を刺激したのは事実であった。
 「手始めに彼について書かれた著作でも図書館で探してみようか」程度の軽い気持ちではあるけれど、どことなく知らんぷりで通り過ぎてしまうには惜しい気持ちが残り、彼の人物像に少し食指が延びつつある。

 俳人石田波郷(いしだはきょう)の妻、石田あき子(同じく俳人)は「このままの 晩年でよし 蝸牛」と歌ったそうだけれど、凡人の私にそこまでの達観を望むのはまだまだのようである。
 ローマ神話に登場するミネルヴァ(ギリシャ神話ではアテナ)は智恵の女神とされているが、パルティノン神殿に共に住んでいたとも、また彼女の使いだともされているフクロウにひっかけ、哲学者ヘーゲルは「ミネルヴァのフクロウは、迫り来る黄昏れを待って飛び始める」とその著書「法哲学概論」に記したと言われている(まだ読んでいないのだが、とてつもなく難解だとの誰かの評釈に触れ挑戦に多少びびっている)。いかもに思慮深げに見える風貌は知の使者たる姿にふさわしいけれど、人生の黄昏にどっぷりと浸かっているだけでなかなか熟成にまでは届かないこの身にも、フクロウはまだ訪れてくれるだろうか。

 「知らないことは恥ではない」ことは、それを契機としてまさに「知るを楽しむ」そのものへと向かえるかどうかにかかっているのではないだろうかと、我が身の黄昏にふとそんな思いを巡らせているのである。知らないことに謙虚に向き合うことで、決して「知らなくても平気」みたいな気持ちにだけはなりたくないものだと、最近やたら増えてきたように思えるクイズ番組や「知らないこと」そのものをお笑いネタにしてしまうような風潮に老税理士は少し顔をしかめながらテレビを横目で眺めている。もちろん、自らの無知を棚に上げつつクイズとして出題される問題そのものの稚拙さを含めてのことではあるのだが・・・。



                                     2008.9.3    佐々木利夫


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