2007年6月にドイツで開かれたG8サミット(主要国首脳会議)に、日本から総理大臣安倍首相(当時)が出席することになったときの話だそうである。
開催地で各国の首脳の宿泊関係を担当した者が、日本側からの注文でこんな配慮をしたと話していた旨の記事を読んだ('07.12.19朝日新聞)。
「(日本には)白い花はヨーロッパとは違って弔いのような意味があるんだそうで、安倍首相夫妻の部屋だけは日本の国旗に関連付けて赤いバラを置きました。」
この意味がまるで分からないというのではない。菊や百合などの白い花が葬式の祭壇を一杯に飾ることが多くの場合定番になっていることくらい知らないではない。
だが、だからと言って宿泊する部屋に白い花を飾ることが不吉で不自然なのだろうか。本当に白い花に弔いの意味を感じて不快に思う人がそんなにいるのだろうか。
そんな風に感じる人は皆無だと言いたいのではない。そう思う人がいたって、それはそれでいいと思う。ただそれは決して「日本人のパターン」としての意識ではないと思うのである。
安倍首相が自分の好み、もしくは心情として部屋に飾る白い花は嫌いなのだと言うのなら、それはそれでいいだろう。それならば首相の好みですから、とか本人の希望ですからと言えばいいのであって、わざわざ「弔い」のイメージなど伝える必要はないだろう。
現に記事のどこにも首相個人の好みであるとは触れられてはいなかった。
ここからは私の勝手な想像である。私はこの「部屋に白い花を置かないで」との注文は首相の好みではなく、首相を取り巻く日本人スタッフの勝手な思い込みによる指示ではなかったかと思うのである。
白い花が日本でどうして葬式などに結びついてきたのか、その経緯を私はまるで知らない。死者と白い花の結びつきについても同様である。だからそんなあやふやな考えのままで何かを判断してしまうことは時に見当違いの意見になってしまうかも知れないけれど、安倍首相を取り巻く人たちの意識の中に「弔いの白い花」がいつの間にか「白い花は弔い」に変化してしまっているのではないかと感じたのである。
そしてふと「形式」と「形式に至る思い」とは知らず知らずの間に乖離していってしまうのではないかと感じたのである。
葬式などの冠婚葬祭に限らず、祭りや運動会などの行事から趣味のお華やお茶、果ては建築や庭園の作りに至るまで、人は多くに形式美を見るようになってきた。
恐らくその形式は始めからのそうすべきものとして存在していたのではなく、それぞれを楽しみ、時に懐かしむ習慣や過程に少しずつ付加されていったものであろう。そしてその付加は、決して行動する人々の身勝手な独断ではなく、何らかの美意識がそうさせたものであろう。
そうした美意識の積み重ねが一つのパターンを形成するようになる。そしてそうした積み重ねが形式として徐々に定着していく。だが、そうした形式はいつの間にかその形式の基礎となった美意識をどこかへ置き忘れてしまうことがある。
そして美意識の忘れられた形式は、形式だけを頼りに生き残ろうとする。
そうした美意識の忘れられた形式は時に権威に守られることで伝統という名をほしいままにするようにすらなっていく。いやいや、もしかすると権威の存在はまさに形式が生き残るために意識的に作られたのかも知れない。形式は形式のままで権威を栄養として勝手に増殖していく。そして時に、あたかもその形式だけのために形式を存続させる必要があると思わせるようにすらなっていく。
やがて形式は慣習となり、やがて常識という衣をまとうまでにのしあがっていく。そして人は作られた常識に安住するようになり、無批判にその流れに乗ることで形式の意味を考えなくなっていく。
もしかするとそうした形式の権威を守っている人たちの身の内には、その形式に潜んでいる美意識の血が脈々と受け継がれているのかも知れない。
だが仮にそうした人たちの存在を認めるとしても、その人たちもまたその美意識を真剣に伝えようとはしなくなってきている。
私はそうした背景を伝えるための努力をしないのは、形式や伝統や権威を守ろうとする者の怠慢だと思うのである。そして形式だけを伝えるのみで権威に服することを要求するのは欺瞞ではないかとすら思うのである。それは形式だけを信じるだけでその背景を探ろうとすらしない者の怠慢でもあるかも知れない。この両者のなかで形式だけが無批判のまま流れ溢れている。
この「葬式の白い花」もそうした流れにあるのではないだろうか。葬式と白い花とはどこかできちんと結びついているのかもしれないし、合理的な背景がきっとあるに違いない。
しかし人は白い花からは葬祭場のイメージしか浮かばなくなっているのだろうか。そうした短絡的な意識がサミットと言う国際的な場にまで広がろうとしている。
安倍首相の部屋を手配したドイツのホテルの担当者は、きっと日本人と白い花について一つの固定した意識を持ったことであろう。そしてその意識はもしかしたらそのホテルの後継のスタッフへと引き継がれていくのかも知れない。
少なくとも日本人である私が、部屋に白い花が飾られていたとしてもなんの違和感も抱かないにもかかわらずにである・・・・。
もっとも、私がドイツのそのホテルに宿泊することなど決してあり得ないことではあるのだが・・・。
2008.2.23 佐々木利夫
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