「・・・との指摘(批判、声、意見などなど)がありますが・・・」と言う問いかけは、マスコミなどの取材陣がニュースを追いかける場合に使う常套手段だが、どうも気になって仕方がない。それはそうした言葉が背景となる根拠であるとかデータをまるで示さず、一方的に相手にたたみかける手法になっているからである。

 問いかけるほうは多くの場合相手に対して対話の了解を得ていなく、それにもかかわらず無理やり相手から何らかの反応を引き出そうとしているケースが多いように感じる。

 そうした取材の仕方なり問いかけが気になるのは、こうした「指摘」などと言う言葉があたかも事実であるかのように一人歩きをしてしまうからであり、その分だけ発言者からその裏づけや発言の正当性を頭から免責してしまうような気がしてならないからである。

 その事実が証明されてしまったら取材する意味がないではないかとの反論があるかも知れない。疑わしいのだからその事実を確かめるために取材を重ねているんだとの意見もあるだろう。

 でも事実が分からないのなら分からないなりの取材の方法があるはずである。結果を予想してその事実に合致するような意見をさがしていくのは取材の方法としては邪道だと思うのである。いやいや邪道どころではない、とんでもない間違いではないかと思うのである。

 「との指摘・・・」の背景にたとえば客観的な世論調査であるとか、検証可能な新聞投書の集約などの納得できるデータがあるのならば、それを根拠として疑問を追いかけるのは当然のことかも知れない。
 だがそうした背景が、例えば単なる噂であるとか質問者の個人的な疑問、更には質問のためだけに作り上げられた客観性を装った追求であるとするならば、それはマスコミの驕りではないのだろうか。

 そんなことを感じている最中にまたしてもこれに輪をかけるような報道があった。一週間ほど前に中国製の冷凍ギョウザ事件が発生した。日本全国の生協などを通じて販売されている中国のあるメーカーの冷凍食品の中から毒性の強い二種類の有機リン系の殺虫剤成分が別々に発見され、食べた消費者の中に入院する者もいたという事件である。

 原因が何か、つまりそもそも原材料などに含まれていたのか、製造や流通の過程での混入か、それとも恨みなどを持つ者の意図的なものなのかなどまだ分からない状況である。
 そんな中で見るともなく見ていたワイドショーの中に、突然中国の最近の事情を示す映像が流れ始めた。その内容は北京オリンピックの開催が間近になってきて、中国は国際的な信頼を高めるために国民に対して公共マナーであるとかルールなどの徹底を図るようになってきていることから始まった。そうした政策の一貫に企業に対する食品製造の管理や従業員に対する待遇改善や人事管理なども含まれていて、最低賃金だの労働時間だの正社員としての雇用などなど、労働にの質に対する監督や規制なども厳しくなってきているのだそうである。

 そしてそうした規制強化などの結果、逆に今までそれほど重要視されていなかった従業員の質の向上などにも厳しく目が向けられるようになってきて、逆におざなりな仕事しかしてこなかったような労働者の大量の首切りなども行われるようになってきているのだそうである。
 そうした事情のあるだろうことは、単にオリンピックに限らず輸出大国にもなってきている中国だから、それほど中国事情に詳しくない私にだって理解できないではない。

 ただそうした事情を映像入りでくどくど並べ立てた後で、最後にキャスターがこう締めくくったのには絶句してしまった。「こうしたことが原因とは考えられないのでしょうね・・・」。

 つまり首になった従業員が腹いせに劇薬である殺虫剤を製品に振り掛けた、または注射器状のもので毒物を注入したのではないかとの憶測である。そうした状況をキャスターは断言したわけではない。単なる「私の勝手な感想」みたいな言い方ではある。
 だが、居酒屋で仲間と飲みながらの酔狂話ではない、テレビのそれも報道番組での発言である。そんな場で、そしてこんな全国民を巻き込んでいるような公共性の高い話題に対して、そうしたまるで根拠も示さない意見は不謹慎ではないか、いやいや不謹慎を通り越して犯罪だと言ってもいいほどの傲慢な発言ではないのかと思ってしまったのである。例えそれが結果として核心に触れた内容だったとしてもである。

 マスコミが証拠もなしに推論を重ねていく手法は以前から気にはなっていた。記憶にある一番最初に違和感を感じた例は、かなり昔の話だが公務員の汚職事件に対する新聞の論評だった。
 私自身が公務員だったから特別気になったのかも知れないけれど、新聞は公務員の汚職事件を報じた後に、「こうした事件に対し市民から批判の声が上がっている」と書き添えていた。

 その時ふと、「市民」とは一体誰だろうと思ったのである。汚職をした者の隣の住人の話しだというのならそれはそれでいい。だが「市民の声」と言うからにはそれなり多数の意見を示すのであろう。「市民」と呼ぶほどの母集団はどの程度の数を言うのかについては私にも必ずしも理解できているわけではない。ただ、多くの人間はこの新聞記事を読んで始めて、ある特定の公務員の汚職事件の発生を知ったのではないかと思ったのである。

 つまり「市民から批判の声が上がっている」との意見は記者の憶測ではないかと思ったのである。記者は市民の意見など聞かないまま、自分の想像のままに記事を書いたのではないかと思ったのである。もちろん、公務員の汚職について多くの人の意見を聞いたなら、公務員に同情したりその行為を是認するような意見などは皆無だろうと思う。恐らく意見を求められた市民の全員が批判の声を上げることだろう。

 だがそのことと、「そう思うから書いた、それに間違いないだろうと確信を持って書いた」こととはまるで違うと思うのである。結果的に同じ結論になったとしても、結果を予定した原稿は記事の捏造と同義だと思うのである。

 そんなこんなで、私のマスコミ不信は昔から私の中に染み付いているのかも知れない。



                          2008.2.7    佐々木利夫

 今朝(2.11)のNHKテレビは沖縄の米兵による女子中学生への暴行事件に関して「自治体や地元住民からの強い反発が起きそうです」と報じていた。NHKだからなのだろうか、それとも報道そのものの姿勢が変わろうとしているのだろうか・・・。


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・・・との指摘がある