「子供用スイカ、機能制限して」と題する読者の投書があった('08.11.29 朝日新聞)。スイカとはJR東日本が発行している改札口を通るときに運賃が自動的に差し引かれるカードであり、現金をチャージすることでコンビニなどでの買い物もできる機能がついているとも聞いている。
 このカードについて投書者である41歳の母親は「小6の息子にとっては何でも買える魔法のカードになっています。・・・子供向けのスイカから買い物ができる機能を外すか、携帯電話のアクセス制限のように機能の有無を選べるように出来ないでしょうか?」と書いていた。

 私はこの投書を読んで、この親はどうしてスイカの機能制限を求めるという他律的な手段しか思いつかないのだろうかと、少し悲しくなったのである。

 スイカは投書者本人も理解しているように、カードに必要な金額をチャージ(入金)して使うものである。こうしたシステムは最近北海道でも札幌を中心に「キタカ」の名称で利用が開始された。まだ電車の利用のみで買い物までには拡大していないけれど、仲間との事務所での飲み会の帰りや天候が荒れた日の通勤などに私もそれなり重宝している。

 それはともかくこうしたカードへのチャージは、主として駅に設置してある読み取り機にカードを挿入し任意の現金を投入することにより完了する。将来的には預金口座からの振替のような方法も可能になると聞いているし、もしかしたらスイカは既に導入済みなのかも知れない。

 ただそれとても預金を持つ者が一定の手続きを経てカードへ振り込むことによってチャージされるのだろう。当座借り越し契約と言うのが銀行のシステムにある。当座預金の残高を超えて小切手を発行してしまった場合に、一定の限度額まで自動的に借入金を発生させるシステムである。しかし、そうした機能がこうしたカードにあるとは聞いていないから、恐らくチャージされている金額を超えての利用はできないようになっているのだと思う。つまりスイカといえども預け入れた金額以内の利用に制限され、それを超える利用はできないということである。だから、ついうっかりであるとか、残高を気にしないで思わず無制限に使い込んでしまうことなども含めて決して魔法のカードにはなっていないということである。スイカを魔法のカードにしたのは誰でもない子供の目の前にいつもいる親だったのである。

 だからそのカードへのチャージは子供が任意に行えるのではなく、常に親(もしくは現金なり預金を管理している者)によるコントロール下にあると言ってもいいだろう。本件の場合は、現金を持っている親の存在なり許可なくしてカードへのチャージは不可能だからである。

 だとするならこの親は、そうした「親自身によるチャージのコントロール」の権能を自ら放棄しているのである。こうしたコントロールの行使を私たちは昔から躾と呼んできたのだし、これしきのコントロールさえできないというは、まさに子供の躾に対する親としてやらねばならない義務の行使の放棄である。

 親のこうした子供に対する躾の放棄には様々な理由が考えられるだろうけれど、そうした親の根底にあるのは、恐らく「私はいくらでもあなたのためにチャージしてあげたいと思っているけれど、カードの発行者がその利用を制限しているせいで私は優しい親になれないの。だから優しくないのは私のせいではなくカードの発行者のせいなの」と言う身勝手な自己弁護の思いなのではないだろうか。

 優しい親、親身な親、抱擁力のある親、あなたのことをいつも真剣に考えている親、のイメージは、いつか子供の行末を全面的に他人(ひと)任せにする保護に名を借りた身勝手で、無責任な存在へと変わりつつあるような気がしてならない。

 いつの間に親は我が子に対して、「交通費として5,000円、それに小遣いとして月に2,000円、だから毎月7,000円をチャージするから、後はきちんと自己管理して使いなさい」などの一言を言えなくなってしまったのだろうか。どうしてそんなことも言えずに、カードを発行する側に対して「子供が言うこと聞かないから発行元の方でどうにかして欲しい」と懇願するような安直な時代になってしまったのだろうか。

 スイカに対するこうした投書者の態度は、例えば依存症やインターネット掲示板への書き込みを使ったいじめ、更には架空請求や性犯罪などの被害者になる恐れがこれほど明らかにされながらも、小学生や中学生が携帯電話を持つことを制限できないでいる親の増加とも無縁ではない。
 親は常に子供の言いなりになることでしか「いい親」になれないと思い込み、子供の言い分に多少でも無理があると思われる場合は、社会だの学校だの行政だのと言った外部からの規制にその判断を委ねてしまい、自らがそうした災害に立ちはだかる防波堤になろうとしない。

 子供は個室でメールに夢中になり、小遣いは魔法のカードで使い放題である。知らぬ間に現代は「親不在の時代」になり、そのことを親自身が気づかない時代になってしまっている。今子供の回りにいるのは「親のふりをしているだけの親」でしかない。そしてその子供は「金」の有り難味も、金を稼ぐ手段も、金がないことの苦しさも、つまりは「お金」そのものを知らないままに大人になっていくのである。



                                     2008.12.18    佐々木利夫


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