「存在の耐えられない軽さ」と言う題名の小説を知ったのはいつ頃のことだったろうか。著者ミラン・クンデラ(1929年、チェコ生まれ)のことなど今でもまるで知らないけれど、この題名にはショックを受けた記憶がある。今手元にある本の後書きによるとこの著作の発表は1984(昭和59)年とされているけれど、最初に日本語に翻訳され出版されたのがこの本だとするなら(千野栄一訳、集英社)、1993(平成5)年以降に私はこの言葉を聞いたことになる。

 だとすればたかだか15年ほど前、もしくはそれ以降のことになる。読んだような気はしているものの私の書棚にこの本は存在していないし、内容についてはまるで記憶にないので買わなかった、更にまだ読んでいないのかも知れない。
 ただこの「存在の耐えられない軽さ」と言うタイトルにはなぜか度肝を抜かれたような記憶がある。それは日本語でありながら私の知っている語彙と言うかフレーズとはまるで異質なイメージを持つ言葉遣いだったからである。原作自体がこうしたタイトルになっているのか、それとも日本語への翻訳者が意訳して名づけたものなのか、原典にあたったところで日本語しか知らない私にしてみればそれを解明することは期待できないから早々に退散せざるを得ないことになるだろう。

 ただ、一言で言うなら「やられた」とか「なんというすさまじい表現」なのだろうかと感じ、平易な言葉を結びつけただけなのに、そうした言葉が私の表現力の中にまるでなかったことに打ちのめされたような気持ちにさせられた記憶がある。それでこの際だからもう一度この本を読んでみようかと図書館から借りてきたのが、手元にあるこの本である。

 ところで、私がこの言葉を今になって思い出したのは、理由もなく頭に浮かんできたからなのではない。実はこのエッセイのタイトルにした「存在を感じる」という言葉が先に出てきて、その言葉に釣られるように遠い昔のこの本のタイトルの記憶が引き出されてきたのである。
 だからこれから書こうとする内容は、「存在」と言うキーワードこそ共通しているものの本の題名とも内容ともまるで関係のないことをあらかじめ断っておかなければならないだろう。しかも私の言う「存在」とは余りにも「即物的な存在」であり、自分でも気恥ずかしく思うような「存在」のことである。

 さて、私が存在を感じ始めていると言うその「存在」とは、実は「五体」に連なることどものことである。つまり手や足や腕や頭、更には腹だとか背中だとか心臓だとか胸などと言う我が身の構成部分のことである。
 私が私自身であることは精神世界のことが基本になるのかも知れない。それは時にアイデンテティーなどともっともらしい名前で呼ばれることも多いし、「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)など含めて、自分とは何かの問題は「個」としての人を捉える場合の永遠の課題であるとも言えるだろう。

 だからと言うわけではないのだが、逆に私には「私の肉体」という物理的な入れ物があり、そうした容器があってこその「私」なのだとも言える。別に肉体と称する容器に収められた精神がその人を形成していることをきちんと理解しているわけではないのだが、まあそんなところだろうか。

 とは言うものの物心がついてからそれなりの大人になるまで、私には肉体なぞ存在していなかった。もちろん私には、どこと言って肉体的な不自由さがあったわけではない。それでも子供の頃、走り、泳ぎ、木に登り、時に喧嘩をしていても、そうした時々に「私には腕がある」だとか「脚がある」などと感じたことはなかった。箸を使って飯を食うことは毎日の作業だっただろうけれど、そのことと「私には指がある」などと改めて感じることなど皆無だったと言ってもいい。だから私にはその存在を自覚していると言う意味では脳も肺も心臓も肝臓もなかったのである。

 それが最近はどことなくそうした様々な存在を知る機会、知らされる機会が多くなってきたような気がする。一日中、または年がら年中と言うほど大げさなわけではないのだが、「足首があること」、「膝が存在していること」、「首があると気づくこと」、「腰と言う言葉を思い出すこと」などなど、五体の様々が自分の体にも存在していたことが折にふれ否応なく知らされる機会が多くなってきたのである。
 それは必ずしも病に通じるものとは限らない。もちろん「痛い」とか「苦しい」などもないではないけれど、例えば「少し重い」だとか、「なんとなく調子が悪い」、「痺れがある」、「歩く速度が少しゆっくりになった」などなど、多少の違和感を共にした部品としての体の各所の存在の実感である。

 それが老いの必然なのだと言われればそれまでのことであるし、足腰の動きが鈍くなってきたり、時に違和感などで不自由を感じることが増えてきたところで、それが加齢から来る当然の結果なのだと理解できないではない。
 ただ、そうした「足があること」、「指があること」、「髪の毛があること」などと言った「存在そのもの」を感じてしまうことは、どこかしら自分自身に対するいとおしさみたいなものにつながっていくような気がしてきている。

 そしてそうした存在を知ることは新しい名称の発見や確認にもつながってくる。手、足、胸、腹、腰、頭などと言った大雑把な表現以外に、体の各所には様々な名称がつけられていることを再確認させられることでもある。
 踵(かかと)、踝(くるぶし)、足首、脛(すね)、脹脛(ふくらはぎ)、膝(ひざ)、更には「弁慶の泣き所」と言った愛称じみた表現などなど、たかだか足の半分にだって日本人はこんなにも多様な名前をつけた。それは恐らくそうした部分部分になんらかの違和感を感じたことが背景になっていたからではないだろうか。そしてそうした違和感が、やがてその部位に病気や障害や苦痛や疲れなどが起きる可能性を示唆するものだったのかも知れない。

 恐らくこれからも「存在」を感じる部位は私の中で少しずつ増えていくことだろう。そうした「増加する存在」の確認を嘆くことではない。手足の存在さえ感じなかった幼かった世代から少しずつ感じる世代へと移り変わっていくことは、それを加齢と呼ぶのとは別に自身に対する容認、許容、理解、そして自分自身の存在への愛着の増加でもあるからである。



                          2008.7.30    佐々木利夫


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