国際的な食物争奪戦が始まっているのだそうである。原因には地球温暖化による気候変動であるとか、原油の高騰による資材や肥料などの値上がり、穀物がバイオ燃料の原料として使われ始めたことによる需給バランスの変化などが言われているけれど、とも角も世界中の食料品が投機資金の動きとも相まって様々な場面で争奪戦の対象に晒されてきていることは事実のようである。

 世の中の経済活動が需給バランスの上に成立していることは、かつて学習したマルクス経済学でも数式を駆使した近代経済学の講義でも立証されていることらしいから、あえて否定はすまい。
 だがそのバランスは、あくまでも経済学の分野だからこそ納得できるのだと思うのである。

 冒頭に述べたような事情で世界の食物相場には様々な利権が群がってきているらしいから、それが結局食物の高騰につながることを一概に否定しようとは思わない。ただそうした動きがあまりにもマネーゲーム化している現代の風潮にどこか間違っているのではないかと感じてしまうのである。

 テレビでは相変わらず芸能人などを使っての大食い競争であるとかグルメ番組が盛んである。そうした放映がされるということはそうした番組で視聴率が稼げるからであろうし、そのことは同時にそれを見て喜ぶ視聴者がいるということでもあろう。
 だから食いきれないほどの料理を後から後から並べられて、その料理の悪口雑言を並べ立て、時に数日を要してまで食いきった皿の数を競うというような中継がなされたとしても、それは放送するテレビ局、うんざりした顔で食っているタレント、それを見ながら喜んでいる視聴者の問題だから、こんなところで私がとやかく言うようなことではないかも知れない。

 それはそうなんだが、そんなゲーム感覚で遊ばれている大食い競争の一方で、食物の高騰が人々の飢えに結びついていくという話につながっていくとなると、ことは大食いタレントやグルメ人種の勝手でしょうとばかりは言えなくなってしまう。

 食物に限らないだろうけれど、生産者はより高く買ってくれる者へ商品を移動させるだろう。農業や漁業だって、そうした生産物の流通だって、現代ではすべて資本主義に組み込まれた経済行動なのだから、水が低きに流れるように商品もまた利潤へとシフトしていくのに何の不思議もない。

 だがそうした流れがマネーゲーム化していったり流通経路を変更していくことは、それに乗れない弱者を切り捨てることになってしまうことに人はどこまで気づいているのだろうか。
 つまり食物高騰の問題は、単なる価格競争という経済活動を超えた資力ある強者の食物の強奪になっているのではないかということである。

 今や食料品に限らず工業製品から原材料としての鉱石などに至るまで、あらゆる商品が一国を超えて世界の中で動き出しているのが現代である。それがグローバルスタンダードであり自由競争であり、そうした方法こそが公平で公正な国際関係を作り上げていくのだとアメリカはもとより世界の多くの国々が主張している。

 確かに日本は飢えとは無関係な国である。それは政治なり行政が安定していて、日本人という勤勉な民族性にもよるところが大きいのかも知れないけれど、戦後60数年を経て日本に飢えはなくなった。空腹やご馳走が少ない程度のことはあったとしても飢えで苦しむ人を見ることはなくなった。

 もちろん無収入なのに生活保護を打ち切られたとか、他人の世話になることを拒否し自分の力だけで生きようとして息切れしてしまった人など、飢えに追いやられる人々が皆無とは言えないかもしれないけれど、多くの場合日本人の食事は空腹の範囲、もしくは贅沢の我慢という程度に止まっていると考えていいだろう。

 だが世界には家族の生活費を一ヶ月数千円だとか数ドルで賄わなければない者、難民で住居すらもなく食べることすら困難な人たちが数多く存在している。そして収入の全部をもってしてもまだ飢えている状況にある者も決して少なくはない。そういう人たちにとって、食料価格の高騰はそのまま「食うものが買えない」ことであり、それはそのまま「食うものがない」という状況に追い込むことを示しているのである。

 そうした状況はもはや空腹ではない。餓死を目前にした人たちにとって食い物とは生きることそのものである。食うことは生きることである。あれこれの種類の中から好みの食物を選ぶのではない。どんなものでもいいから今食えるものが必要なのだ、食えないことは死ぬことなんだとの状況を空腹などとたやすく呼んではいけない。

 トウモロコシの値上がりは、日本人にとってはコーンラーメンや牛の飼料の値上がりに過ぎず、場合によっては関連商品の値上がりに結びつくことになるかも知れないけれど、トウモロコシが最低の食事でしかもそれを食べることでしか食生活を維持できないような貧困層にとってみれば、価格高騰と言う経済活動の自由はまさに死への自由としてしか機能しなくなっているのである。

 食べることは何も貧困層に限るものではなかったはずである。人も含めて生物にとって食べることはそのまま生きることと同義であったはずである。
 にもかかわらずどうして人だけが食べることの中に生きることの意味をまるで感じないようになってしまったのだろうか。

 そうしたことに少しも気づかないまま、お笑いタレントは出てくる食べ物をひたすら飲み込むことだけに集中し、テレビカメラはそのタレントのげんなりとした食い飽きた表情を追いかけ、画面のこちら側ではビール片手にげらげら笑いながらその姿を見ている多くの人たちがいる。
 そんな世の中をあっさり平和だなどと言ってはいけないのではないかと私は思い、食い物をゲーム化している日本の今の社会に行き場のない憤りを感じてしまうのである。



                          2008.3.15    佐々木利夫


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食物争奪戦