つい最近、現代版玉虫厨子が制作されて公開されたのとのニュースがテレビや新聞で報道された。
 奈良県斑鳩にある法隆寺に所蔵されている国宝「玉虫厨子」の複製品らしい。国宝だけあって恐らくは教科書にも写真が載っていたのだろうし、恐らくは日本史でもこの時代は先生方も昭和の戦争までにはまだまだ間がある時期だからゆったりと生徒に教えたのだろう、私も名前だけは聞いたことがある。

 法隆寺は我々の時代なら高校生の修学旅行の定番コースに入っていたのだろうが、残念なことに私は修学旅行に行かなかった。行けなかったことに刺激されたからでもないのだろうが、税務署に就職して数年たった20歳そこそこで法隆寺を訪ねたことがある。

 自らコースを決めて歩くほどの熱心さはなかったと見えて、東大寺なども含めた観光バスでの周遊であった。だから法隆寺を見たことは記憶にあるもののどんな宝物が陳列されていたのか、正倉院がどんな作りの建物だったのかなどもうすっかり記憶が薄れている。だから玉虫厨子も同様に、本物を見たのか単なる教科書の知識だけなのかさえ定かではない。

 その玉虫厨子の複製が作られ今年3月1日にマスコミに公開されたらしい。そのことはいい。コピーだから有難味が少ないとか、ご利益がないなどと思っているわけでもない。
 ただその複製品の仕様、そしてそれを語る僧侶の姿勢にどうもひっかかるものが残ったのである。

 厨子とは仏像や舎利(釈迦の遺骨)を安置する仏具であり、玉虫厨子も高さが226cmもあるらしいのでけっこうな大きさである。この名前のついた由来は厨子の周囲に張られている透かし彫りの金具の下にタマムシの羽根が敷き詰められていることによる。

 玉虫はカブトムシの仲間らしく(カブトムシ亜科、タマムシ科)、世界には10種を超えて存在するらしいが日本での生息地は本州、四国、九州とされているから、残念ながら北海道で生きている玉虫を見つける機会はなさそうである。

 今回作られた複製は、実物に忠実に似せたものが一基、そのほかに大きさは同じだが実物にはない箇所にもタマムシを使ったものが一基の二つである。
 私が気になったのは、前者に6,600枚、後者に36,000枚のタマムシの羽根が実際に使われたと言うことであった。計4万枚を超えるタマムシの羽根の使用は、一匹から2枚の羽根が採れるとしても実に2万匹が消費されたことを示している。

 消費された玉虫についての情報が少ないので想像するしかないのだが、玉虫だって昆虫だからどんどん繁殖するだろうし、場合によっては特定の場所でどんどん死んでいく場合だってあるかも知れない。だとすれば死んだ玉虫を集めて羽根を採取することもあながち不可能ではないだろう。だがまあ、常識的に考えるなら生きている玉虫を採取し、その羽根をむしりとって4万枚を集めたというところが正解であろう。

 「インドネシアや台湾などから輸入した2万匹以上の玉虫の羽を活用・・・」と新聞には載っていたから(3.2、朝日)日本に生息するヤマトタマムシではないのかも知れないが、ただそれだって別種であるというだけで2万匹の玉虫であることに変わるところはない。
 むしろ国内からの採取ではないとの言い分は、ことさらに「日本のタマムシを使ったのではありません」と強調し、逆にそれを言い訳にして採取を正当化しているかのようにさえ感じてしまう。

 「動物の命を大切に」などと、そんな大それたことを考えているのではない。私だって子供の頃にはトンボの羽をむしったり、カエルの尻の穴からストローで空気を吹きこんで腹をパンパンにさせたり、好きな女の子に渡そうと虫かご一杯に蝶々を集めたことなど、キリギリスやバッタやザリガニなども含めてけっこう悪餓鬼ぶりを発揮していたことは今でもよく覚えている。

 子どもだからいい、大人だからダメだと言いたいのではないけれど、それでもこの玉虫厨子の複製発表に当たって、法隆寺の住職すらも羽根の採取の基になった玉虫の命について少しも触れることがなかったことになんだかやり切れないような思いを抱いたのである。虫とは言え、命を使ってこの複製ができたことを少しも感じていない態度に言いようのない不遜さみたいな苦々しさを感じたのである。

 厨子に貼られた玉虫の羽は、「命」から「緑色、虹色に煌めく羽根」という「物」へと質的に変化した。そのことの理解ができないのではないのだが、それでもこの「命」と「物」とはどこかでつながつているはずなのだと、そうしてそのつながりを人は忘れてはいけないのではないのかと思えて仕方がなかったのである。

 羽毛製品の製造で絶滅寸前のアホウドリ、毛皮のために乱獲されたアザラシなどのように、玉虫に絶滅の心配はないのかも知れないけれど、人の自然への関わりにはどこか傲慢みたいなものが感じられる。

 ましてや「想像以上に色彩鮮やかで、大変嬉しい」と語る住職のにこやかさの中に、私に仏門を語る資格のないことを十分に理解した上でも、住職ゆえに必要な「命」と向き合う姿勢がまるで感じられなかったことが気になったのである。
 たかが「虫けらの命」ではあるけれど、仏教の輪廻の教えは人の命もまた虫や獣と共に転生していくのでなかったのかと、この坊主の笑顔に理不尽かも知れないけれどどうしょうもない苦々しさを感じてしまったのであった。



                          2008.3.3    佐々木利夫


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玉虫厨子(たまむしのずし)
  

ヤマトタマムシ