私の事務所が時に仲間との居酒屋に変身することについてはこれまでにも何度かこの場で紹介してきたが、この話はつい先日の飲み会での出来事である。集まるのは同業の仲間が多く、年齢にもそれほどの違いはないから話もどうしたって仕事に関するものが多くなってしまう。
 こうした傾向は私が現在税理士をやっているからというわけではなく、男の酒と言うのはいつの世も仕事を巡るものが多くなってしまい、仕事や職場の話であるとか上司の悪口なんぞが肴になってしまうのは現役当時の昔から相場が決まっていたような気がする。

 さて税理士の仕事の話と言えば税金とか経理とか卑近な街角経済みたいなものになってしまうことが多いのだが、時にぶつかっている事案の悩みや相談や愚痴みたいなものもけっこう話題になる。まあそうは言っても、どうせ酒の肴として言いっぱなし聞きっぱなしになることの多い話題なので、話す方も聞くほうもほどほどの熱心さというところだろうか。

 それはそうなんだが、そうした会話が最近少しずつ噛み合わなくなってきているような気がしてきているのは思い過ごしなのだろうか。それが例えば法令や通達の解釈の違いなどといったことなら、それはそれで互いの意見をぶつけていくことに何の異論もない。たとえそれが一過性の屁理屈に過ぎない話題であろうともである。

 ただそうでない話題についても、一つの問題提起に対する対立軸そのものが噛み合わなくなってきているような気がしてきてならないのである。
 それは話の対立点が理屈ではなく、「世の中そうしたもんだ」と言われてしまう場面が多くなってきたような気がしていることにある。

 私だってこれまでの人生真っ白真っ直ぐだけで過ごしてきたわけではない。罪刑法定主義の厳格な適用が要求される刑事裁判の世界にだって「可罰的違法性」の理論(違法ではあるけれど処罰には値しないとする理論)であるとか、微罪を無罪とした一厘事件と呼ばれる有名な大審院の判例(葉たばこ一枚を自分で消費したことによる煙草専売法違反事件、明治43.10.11)などのあることを知らないではない。そして世の中が正方形や直線で囲まれた四角四面や理屈だけで割り切れるものでないことくらい、この歳になるまで曲がりなりにも世の中を泳いできたのだから多少は理解しているつもりである。

 だがこの「世の中そうしたもんさ」と言われてしまうと、とたんにそうした意見に反論ができなくなってしまうという意味で会話が成立しなくなるのは困ってしまうのである。こうした「世の中論」は理屈でないからである。この言葉は、社会が現に規則や法律やもっと言うなら正論などとは無縁の状態で動いていることを理屈抜きで承認せよと相手に迫るものだからである。
 そしてこれが一番困ることなのだが、そうした理屈抜きであること、そうした世の中論が感覚的にしろ間違っているかも知れないことを話している本人自身が感じており、そのことを承認しつつ主張していることである。

 だからその段階でそうした言い分に対する反論はストップせざるを得ないのである。正しい答を知りつつそれを承知で反対の結論を主張していると本人自身が承知している可能性が高いからである。
 つまり、その意見なり選択に対して仮に「どこか変じゃないか」と指摘したとしても、「そんなこと知ってるよ」との返事があっさりと返ってきて、続いて間髪を入れずに「そうした意見は現実には通じるわけがない、それが世の中ってもんさ」と続けられてしまうのが落ちだからである。

 繰り返すことになってしまうが、こうした主張には反論のしようがない。その主張に理論などないからである。ないと言うよりは理論的に誤りであることを分かっていて主張しているからである。キャッチボールしている会話なり議論がそこでいきなりプツンと鋏で切られてしまうからである。会話は終わりだよと一方的に宣言されてしまうのである。

 もちろんそうした主張に、理論はないにしても哲学は存在するだろう。なぜそうした主張になるのかの背景には、「それが世の中であり」、「そうすることが世の中だから」という「流れの哲学」を相手が信じている現実があるからである。
 信じているのが根拠なのだからそれ以上の説明はない。信じていることがそうした主張に対する完璧な哲学だからである。「そんな馬鹿な」とこちらが思ったところで相手が納得するわけはないのだから、せいぜいが「どうして分かってくれないのかな・・・」と心の中で力なくつぶやくしかないことになるのである。

 それが社会に生きることであり、そうした流れの哲学を理解していくことが大人になっていくことなのだとする理屈が分からないではない。
 でもそうした哲学を「世の中」という枠組みの中に押し込めてしまって、自身の人生や生き方をそうした枠組みの中へと閉じ込めてしまうのなら、それは生活しているのではなく単に浮かんでいるに過ぎないのではないかと、私はどうにも納得できないでいるのである。

 「世の中論」が丸っきり間違いだと言いたいのではない。「世の中そうしたもんさ」と言ったってかまわない。ただ私はそこで思考を止めてしまうのではなく、「どこか変だ」という感覚を持った上でそうした感覚を大切に持続させて欲しいのである。「世の中そうしたもんさ」と相手の議論をそこであっさりと打ち切ってしまうのではなく、自身の中に何が正しいのか、何が望ましいのかを反芻してほしいのである。

 「建て前と本音」の文化は日本特有のものではないだろう。そうしたニュアンスは例えば国際会議なども含めて多くの場面で感ずることができる。そして「建て前」という言葉の中には、「正論だけれど世の中に通じない非常識な意見」みたいなニュアンスが色濃く匂っている。そして人は本音に流される。流された人々の集団が社会となり国となって、それがまさしく「世の中そうしたもんさ」を作り上げていく。

 我々は社会に依存して生活してるのだから、そうした本音に流されること自体やむを得ない場合もあるとは思っている。だがどこかで人は「建て前」を失ってはいけないのではないだろうかとも同時に感じているのである。

 たかが小さな事務所での他愛ない酔っ払いのたわごとに、建て前だとか本音だとかを持ち出すほどの必然性はないかも知れない。
 だが例えば平和だとか、環境だとか、犯罪などなど、いやいや、そうしたとてつもなく重たいものばかりでなくほんのささいな隣近所とのあいさつ程度のことにだって、やっぱり「建て前を意識すること」は大切なのではないだろうかと思うのである。

 現代はそうした建て前を失ってしまった時代なのかも知れない。目の前の利益や便利さに流されることが生きていくことなのだと、そんな風潮のはびこる時代になってしまったのかも知れない。
 まるで知らなかったのだが、最近の流行語に「YK」と言うのがあるそうだ。YKとは「空気が読めない」ことを指す若者言葉だそうである。つまり回りの状況に流されること、その場の雰囲気を理解して先んじて従うことが生きることなのだと理解し、そうした考えに逆らうことや気づかないことを常識から外れた行為として排斥しようとする言葉である。まさに建て前に従い本音を隠すことを承認しなければならないような状況が若者にまで広まってきていることを示している。

 だが建て前を失くしてしまった時代というのは、どこか人間としての背骨を抜かれてしまっている時代ではないのだろうか。自分のことしか考えないようなそんな現代だからこそ「空気を読まない勇気」を心のどこかにきちんと潜ませておくことが必要とされているのではないだろうか。たとえその建て前をあからさまに主張するようなことなどないにしても・・・。
 「空気を読む」意識は昔からあったとは思うけれど、決して今の若者が使う「YK」の意味とはまるで違ったのではないか。「YK」の意味も使い方も、今の若者は間違っているのではないかと私の頑迷な頭はどこかで囁き続けている。そしてむしろ若者にこそ今流行りの空気なぞ読まない意地を持って欲しいと言いたいし、大人に対しても建て前を映画や小説だけの世界に閉じ込めておいてはいけないと言いたいのである。

 そわさりながらこんなことも気になっている。つまりそうした対立意識と言うのは相対的なものに過ぎないから、仮に私自身の中に建て前に固執する傾向が強まってきているのだとするならば、そうした分だけ相手の本音論とのギャップが広がっていくことになるし、更には自らギャップを広げていっている可能性もあることを否定できないだろうと思えることである。

 だとするなら、こんなことを書いていること自体が己の頑迷さの広がりを自白していることなのかも知れないと背中に少し風を感じ、そして同時にそこまで冷静に考えられるのならば決してそうした心配はしなくてもいいのではないかとも・・・。



                          2008.1.15    佐々木利夫


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建て前を失った社会