そしてビッグバンがその混乱に追い討ちをかけた。「時」はそこから始まったのか。「時」以前に「時」は存在していたのか。そのことは「時」がこれからも永遠に続いていくのかの疑問でもある。「時」には始まりと終わりがあるのか。始まりはあっても終わりはないのか、終わりが存在するだけなのか。そもそも「時」とは何者なのか。「時」そのものが一つの存在なのか。
イギリスの哲学者マクタガート(1866〜1925)は「時間なるものは存在し得ない」と主張したと言われている(時間のパラドックス、中村秀吉著、中公新書575)。マクタガートの理論についてはこの書物にそれなり噛み砕いて説明されているが、残念ながら私にはまるで歯が立たなかった。
恐らくそれは私自身が均質な(と信じている)時間の流れにどっぷりと漬かったまま、そこから抜け出せないでいるからなのだろう。
「光あれ」(旧訳聖書、創世記)と神が叫んだときから宇宙は始まったのかも知れないけれど、それは同時に叫びの前にも神が存在していたことを示しているのだろうからやっぱり気になってしまう。もちろんそれは私の中にある神話と現実の混同なのだと言われればそれまでのことではあるのだが・・・。
しかしながら四次元座標は立体である三次元空間に時間軸を加えたものだと言われている。そして数学は四次元に止まることなくn次元たる多次元空間にまで進んでいる。
時間もまた存在の構成要素の一つなのだとするなら、そもそも「存在すること」そのものが私にとっては理解不能の混乱であり、カオスだの混沌だのの中に自らを追い込んでしまうことになる。
時の記念日の意味はたかだか「時間を大切に」で済むのかも知れないけれど、時計から少し脇道にそれてみると「時間」という怪物は収拾のつかない混乱の中へと私たちを追いやってしまうようである。
ともあれそうした混乱の中にある「時」ではあるけれど、我々はその混乱に身を委ねているたまさかの旅人であることに違いはないだろうけれど・・・。
2008.6.18 佐々木利夫
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数式をホームページで表現する方法を知らないので画像にしたが、左式がその方程式である。t'はAがBの時計を読んだ場合、tはAが自分の時計を読んだ際の時間である。vがAとBの相対速度、cは光速度である。相対速度が光速度に近づくにしたがい、この方程式はBの時計をAが読めば、Aの時計よりもどんどん遅れていくことを示している。そしてなんと、速度vが光速度に達すると時間は止まるのだとこの式は示しているである。