「胡散(うさん)」と言う字が読めたし意味も分かっていた。ただ、意味が分かったと言っても「うさん」が分かったのではなく、「胡散くさい」が分かっただけに過ぎなかった。「どこか信用できないような態度、疑わしい雰囲気、気配・・・」、そんなところだろうか。
 ところが「胡散」そのものの意味が分からない、まるで見当もつかない、雰囲気さえもつかめない、私の知識の中にこの言葉自体が存在していない、そのことが逆にどうにも気になってしまった。

 解決は簡単である。私だって広辞苑くらい持っているし、そのほかにだって2〜3の国語辞典、漢字辞典だって持っているから、あっと言う間に解決するはずである。なんならインターネットでの検索でも解決は容易である。

 ところがことはそんなに簡単ではないかった。広辞苑では「うさん=あやしいこと、疑わしいこと」と解説するだけであり、つまるとろこ「胡散臭い」の「臭い」の部分を削っただけの解説でしかなかったからである。「臭い」が単なる臭いとして「臭い」の意味でなく、「疑わしい」の意味であろうことくらい始めから分かっていたことだったからである。

 さてもう少し調べていっているうちに、この語は「胡」、「散」、「臭い」の三つに分かれるらしいことが分かってきた。「臭い」の意味は既に触れたから、残るは「胡」と「散」である。

 どうやら「胡」とは一種の薬品のようなものだったらしい。そしてその何かと言うこと自体また胡散臭い話なのだが、不老不死の妙薬であるとも、麻薬のような一種の幻覚によって桃源郷へと誘うような効能を持つものとも言われている。つまりは存在するかどうかさえ疑わしいものだけれど、仮に存在するとすれば万人の望む霊験あらたかな素晴らしい薬らしいのである。
 「胡」がそうした薬品もどきを表すのだとすれば、「散」は自動的に解釈されることになる。「散」とは「散薬」の意味であり、その薬が粉末状のものであることを示している。

 そう言えば私が子供の頃、「龍角散」と呼ばれる手のひらに載るような小さな丸い金属の缶に入った白い風邪薬があった。「せき、こえ、のどに龍角散」のコマーシャルを今でも覚えているくらいだから、きっと家庭の常備薬みたいなものだったのだろう。耳かきのような小さなスプーンですくい、多少ムセ気味になりながら飲まされた記憶がある。遠い昔の記憶だけれど、今でも市販されているのだろうか。龍角散以外に具体的な「散薬」を飲まされた記憶はないが、例えば犀の角の粉末だとか特別な石なのかも知れないがそうしたものの粉に「なんとか散」と名づけられた漢方薬らしき名称をいくつか聞いたこともある。

 ともあれ「胡散」の意味がどうやら分かってきて、「胡散臭い」についてもそうしたどうしても手に入れたいとの願望とその願望を叶えることが不確実であること、そしてその願望の対象の存在そのものが非常に曖昧であることなどがない混ぜになって、意味づけられているらしいことも分かってきた。

 ともかくも言葉の意味が分かって少し気持ちが落ち着いてはきたのだが、考えてみれば今の世の中我々はいたるところ、胡散臭さの只中にあるのかも知れないとそんなことを考えてしまった。
 昨日(08.7.9)でG8(北海道洞爺湖サミット)が終わり、福田総理大臣による議長総括の演説がなされた。世界の首脳を集めての会議だし、開催国議長としての思惑もあるだろうから会議結果について自画自賛になるのは当然のことだとは思うけれど、「何がきちんと決まったのか」と私自身に問いかけてみるならどうもしっくりこないものがある。

 一番の課題である温室効果ガスの世界的な排出抑制だって、総理は各国了解済みとは言うものの目標としていた2050年までに50%削減などと言った具体的な数値目標は掲げられず国連交渉へ先送りされたに過ぎなかった。インフレに対しては「強い懸念」が示されただけであり、食料危機に対しても輸出規制の廃止や食糧備蓄の提言に止まり、アフリカの求めている食料や原油値上がりへの対応についても「支援する」との声明のみである。また、北朝鮮の拉致問題は主として日本だけが大騒ぎしている部分があるのかも知れないけれど、その事実への非難の声明に止まっている。

 議長総括は主要国と新興国など計22ヶ国の統一意思の発表だから、それぞれの国の利害が複雑に絡み合って、総論はともかく各論には踏み込めない事情の多いことを理解できないではないけれど、世界の政治家が集まって、ただただひたすらに自国の有利・不利を巡る言葉遊びに終始しているような気がしてならない。

 世の中には全部ではないにしても、どこかで頭から信じるというか物事を鵜呑みすることで成立しているような背景も普通に存在している。そうした鵜呑みを、「きちんと確認しない、確認できない、確認しようとしない」側の責任だと言われてしまえばそれまでかも知れないけれど、どんなことにもきちんと確認しなければ生活していけないような社会というのは、どちらかと言うなら生き方としてはしんどいものがあるのではないだろうか。

 目の前の青信号は反対道路の赤信号を示していると言われたって、その信号無視して交差点に飛び込んでくる車だってないわけではない。反対に赤信号でも堂々と渡っている歩行者もいないではない。「必ず返すから」といわれて金を貸したり連帯保証人になったりしてとんでもない目に会う人だっている。

 商品に張られた賞味期限の日付が正しいのか、産地表示は正確か、鶏肉の国産表示は本当か、表示されたブランド肉に格落ちの肉が含まれてはいないか、目の前に出てきた一流料亭の料理に他の客の残したものが使い回しで出されていないかなどなど、ついここ数日でもいたるところで発生している疑惑の食品に関する話題だけでも胡散臭さには事欠かない。
 我々に提示される情報の全部について、それが正しいか否かを判定するのも自己責任だと言われても、正直私にはついていけないような気がする。「国産バター」と書いてある箱を見てそのまま信用してしまうのは、果たして自己責任の放棄なのだろうか。

 私自身、「なんでもかんでも他人任せ」の風潮が最近特にはびこってきていることを苦々しく思っているし、そうした依存状態の氾濫は人の生き様として間違いではないかとも思っているけれど、人はどこかで自己判断への許容範囲みたいなものを身の裡に抱えているのではないだろうか。それは依存ではなく、信頼の範疇に入る一つの形なのではないかと思うのである。

 だがこんなにもたくさんの「胡散臭さ」が氾濫し始めてくると、そうした許容のセオリーに自信がなくなってくる。不信は疑心を生み、疑心が暗鬼につながることは古来から言われていることではあるけれど、「胡散臭さ」に嗅覚をとがらせていかないと、人はその臭さにいつか慣らされてしまうのだろうか。「信頼することは罪であり、自己責任の放棄である」とする時代に、我々は否応なく突入してしまっているのだろうか。



                          2008.7.10    佐々木利夫


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「胡散臭い」はなし