いつの頃だっただろうか、NHKで放送されている中学生日記にこんなストーリーがあったのを記憶している。

 都会の生活の中で目的を見つけられない少年が、田舎の陶芸見習いの外国人と友達になる。その友達は窯の炎を見ながらこんなことをつぶやく。

 「木は自分が燃えていることを知らないんだ
 「ひたすらに燃えているんだ」
 「人は全部違うんだ。いま焼いている作品のように。だから面白いんじゃないか。だから君も僕も友達になれる」

 そして少年は元気になる。

 分かりやすいストーリーである。だが分かりやすいということの裏にはどこか省略、それもとんでもなく大きな省略が隠されているのではないだろうか。我々は知っている。燃える木をいかに擬人化したとしても、その燃える木は自分が燃えている事実はおろかやがて燃え尽きて灰になり跡形もなくなってしまうことすらも知らないはずである。また窯の中の作品がどんなに丹精を込めたものであろうと、一山いくらの見切り品にされたり場合によっては失敗作として壊されたしまうことだってあることを・・・。

 擬人化に伴う分かり易さの問題だけではない。これは新聞で読んだのだが、アキレス腱を切って手術を受けた患者が手術直後の車椅子生活に触れて、「生まれて始めて体験した患者、障害者としての生活は興味深いものだった」と書いてあった。
 だがこの人の思いはどこか根っこで間違っているのではないかと思ってしまった。彼の意識にはその不自由さが足が直るまでの仮の車椅子生活にしか過ぎないのだという決定的な自覚の欠如があるように思えてならないからである。彼の操る車椅子の生活がどんなに不便であり、そうした不自由な生活によって障害者の気持ちが共感できたと思ったとしても、それは錯覚でしかない。なぜなら彼の車椅子生活は彼自身が日常生活を取り戻すまでの仮の姿であり、アキレス腱の治療が終わったならば彼は車椅子からものの見事に解放され怪我以前の何事もなかった人生に戻ることができるからである。

 もちろんこれは私の勝手な憶測である。障害者の気持ちを理解するには、実体験としての障害、つまり自身が同じような障害者にならなければならないとまで断言するのは言い過ぎかも知れない。人には想像力があるのだから、似たような環境から共感する心を学ぶことだって可能であろうからである。私はそうした可能性を否定するつもりはないけれど、それでもどこかでそうした共感には嘘が含まれているような気がしてならないのである。

 それは私自身がそうであったからである。私は3年少し前に脳梗塞で入院したことがある。病院へは受付時間が迫っていたこともあってハイヤーを利用したけれど、比較的自覚症状が軽かったこともあって受付までは歩いて手続きを済ませることができた。ところが病院側の対応はすぐに入院せよとの指示であり、そのまま車椅子に乗せられて病室に運ばれることになったのである。私はそのとき始めて車椅子での生活を経験した。そしてそれがいかに行動を制限するものであるかの実感も含めて・・・。

 だがそれだけの話である。不便な生活は数日を経ずして解消し、松葉杖すらつくことなく私は病院内を少しずつ二足歩行で移動することができるようになったからである。私は確かに車椅子もその不便さも経験した。しかしその不自由さはいわゆる疑似体験にしか過ぎなかった。

 私はそうした境遇から回復したことで車椅子の不自由さを忘れてしまったことを言いたいのではない。確かに人は忘れる。嬉しいこともそうだけれど苦しかったことも忘れる。だからこそ人は生きていけるのだと言えるのかも知れない。
 私が感じたのはそうした忘却の無責任さに起因するものではなかった。私は車椅子に乗ったそのときから間もなく自力で歩けることを知っており、そのことが車椅子の不自由さを実感の伴わない単なる経験に変えてしまっていることに気づいていたことであった。

 つまり私は私自身の鈍感もさることながら、車椅子から学ぶことはなかったのである。私とて障害者についての理屈だけならいっぱしのことは言えるだろう。だがそれは一過性の車椅子生活に不自由を感じるだけの者と生涯を障害者として過ごさなければならない者との決定的な違いをまるで理解しない者の単なる空論でしかなかったのである。

 つい数日前の9月15日は敬老の日だった。いつもながらあらゆるマスコミが老人問題を特集し、それに呼応するように各自治体や町内会などが一斉にいわゆる「敬老」や「長寿」を叫びだした。表彰状、記念品、そしてその中に幼稚園児が老人ホームを訪問して歌を歌ったり踊りを踊ったり、そして最後に「おじいちゃん、おばあちゃん、いつまでもながいきしてね」と声をそろえる場面をいくつも見せられた。
 年に一回この日だけに行われる敬老行事自体かなり嘘くさいけれど、幼稚園児の演技には親や幼稚園そのもの、そしてそれをバックアップしているのか、はたまた乗っかっているマスコミの安易な姿勢に腹立たしささえ感じてしまう。なぜなら、幼稚園児は決して自発的に老人ホームを訪ねようなどとは思わなかっただろうからである。「敬老の日に老人ホームでお年寄りを慰労する」との発想は、決して園児自らが自分の意思で思いついたものではないと思うからである。

 これはヤラセである。ヤラセとは嘘のことである。嘘を美談でくるむことをヤラセというのである。私は園児がヤラセに乗っかったこと、そしてそのことをヤラセと気づいていないこと、そしてそれ以上にその背後に自らの善意にほくそ笑んでいる園長や園児の親やホームの経営者やカメラを回すマスコミの姿勢、そしてそしてそれ以上にそれに踊らされているホームの老人の笑顔などにやりきれないものを感じてしまうのである。

 どんなことにだってどこかに嘘はあるのかも知れない。好き、嫌い、正義、邪魔、仕事、結婚、生きていることなどなど、少しなのかも知れないし、ホンの僅かな部分にしか過ぎないのかも知れないけれど、人はどこかで嘘なしには生活していけないのだろうか。



                                     2008.9.18    佐々木利夫


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どこかに嘘がある