マスコミが報道の勇み足を自ら認めて、今後の自制なり自戒の弁を述べるのをこれまでどれほど聞いたことだろうか。ワイドショーだけを取り上げてマスコミを論じるのは片手落ちの謗りを免れないとは思うけれど、そうした番組にマスコミの一番厭な面が現れるのも事実であり、場合によっては見え隠れの衣の中味が透けるのもまた事実である。そうした意味ではワイドショーもまた反面教師としての役割を果たしているのかも知れない。

 つい先日読んだ朝日新聞の記事である。芸能欄の「TVレビュー」と言う囲み記事で、元NHKのディレクターの吉田直哉さんが9月30日に亡くなったことを知らせるとともに、彼に関わる「吉田直哉が残したもの」と題する特集が文化の日にNHKの総合テレビで放映されたことを知らせるものであった。残念なことに私は彼のことをまるで知らないし、この放映も見ていなかった。記事を読んで彼がこれまで様々なドラマを手がけた多彩な演出家であったらしいことが理解できてきた。

 私の目に止まったのは、その記事の中にあった吉田氏が言ったとされるこんな言葉であった。

 そんな吉田さんがまるで遺言のように残した言葉が番組の最後に語られていた。「大宅壮一さんに思い知らせてやるというのが私のモチベーションだったが、今考えてみるともしかしたら大宅さんの一億総白痴化は当たっていたかも知れない」。そう不吉な予感を語り・・・(朝日、'08.11.24)

 私の生まれた昭和15年にまだテレビは発売されていなかった。NHKのテレビ放送が開始されたのは昭和28(1953)年のことだし、当時のテレビジョンの価格は20万円とも30万円とも言われているから、例えば私が公務員になった昭和33年の月給が6,300円だったことからしても一般家庭に普及するのは夢のまた夢でもあった。

 大宅壮一が週刊誌でテレビシステムそのものを「一億総白痴化」と評したのは1957年だと言われおり、この言葉は瞬く間に当時の流行語になった。聞くから見るへ、ラジオからテレビへの移行は人々の意識を大きく変えた。現在のインターネットに至るまで、映像によるメディアの発達には目を見張るものがある。例えばこうして私がホームページで自分の意見を発表すること自体、見かけは文字による意思表示ではあるものの、モニターと呼ばれる映像表示装置によらなければならないという基本的な制約がある。果たしてこれは活字文化なのか、それとも映像文化に支えられたものなのか。

 そしてテレビはワイドショーが花盛りである。恐らくそうした花盛りの背景には、視聴率という番組への評価手法があり、そうした評価に応じてスポンサーが広告料たる料金を支払うというシステムが確立しているからであろう。
 ワイドショーに対してくだくだ議論をするよりは、そんなにくだらない番組だと言うなら見なければいいではないかとの意見の分からないではない。見る人が減ってくれば自動的にそうした番組はスポンサーから見放されて衰退していくであろうからである。

 だが果たしてそうした「視聴者の興味」を基礎にした報道姿勢が、メディアとしてのきちんとした発達につながっていくのだろうか。
 かつて、メディア自身が報道という語を「報導」と書きたがった時代があった。そこまでの驕りにメディアが今でもしがみついているとは思わないけれど、「視聴者の興味」を根っこにおく限り報道はいつまでたっても自立した地位を確立することなどできないのではないだろうか。

 もっともワイドショーにも一つだけいいことがある。それは再放送がないことである。一人の事務所はまさに自己責任の塊りであり、ともすればテレビと向かい合う時間が多くなってしまう。そして、これは見る側としての私の視聴時間が長いことによるものなのか、それとも放送する側の安易さによるものなのか良く分からないでいるのだが、この頃のテレビにはやたらと再放送が多くなっているような気がする。
 そうした中でワイドショーの再放送だけはまだ見たことがないような気がしている。だからそのことだけはテレビのいいところなのかも知れないと、この頃ふと思ったりもしている。

 ただ一方において、仮に一億総白痴化の予言が正しかったとするなら、そもそも白痴集団たる視聴者の中から報道に対する自制や自戒が自主的に形成されることなど夢のまた夢なのかも知れないと思ったりもしているのである。



                                     2008.12.3    佐々木利夫


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