リビング・ウイルとは普通「尊厳死」と訳されている。リビングとは人生もしくは生きていることであり、ウイルは遺言という意味だから、一般的には死に瀕している患者であるとか健康であっても自らの死に瀕した場合をあらかじめ自らの意思で決定したいと願う者が、生前に自らの延命についてどう考えるかの意思表示を文書として残すものを言う。
 概要的には不治の病に対しては延命を拒否し、痛みには最大の緩和を求めるがそのことで仮に死期を早めることがあってもよしとし、植物状態になったと判断された場合には一切の生命維持装置を拒否するなどの宣言を主な内容とする。

 平均寿命がどんどん延びていって、人はなかなか死ななくなった。元気で健康のまま長生きできるのならそれにこしたことはないだろうが、「ボケ」だの「痴呆」だの「認知症」だの「植物人間」だのと自分の世話を自分でできないような時代を迎えているから、世の中どうもそんな風に自分だけに都合よくはできていないのが現実である。
 だからこそ「ポックリ」だの「安楽死」などが老人仲間で話題になってくるのだろう。

 日本でも最近この尊厳死を法制化しようとする動きがあるようだ。「健やかに生きる権利」、「安らかに死ぬ権利」を自分で守るとする考えに異論ははさむまい。私自身こうした意思は人の最後の尊厳を支えるものとして長く認めてきたからでもある。

 日本学術会議は今から14年も前(1994年)に、尊厳死の容認のために次のような三つの要件を決めた。
 @ 医学的な回復不能
 A 意思能力ある患者による希望(本人の意思確認不可能な場合は近親者)
 B 医師による延命医療の中止

 現にカリフォルニアには自然死法があり、ベルギーでも昏睡・植物状態でなくても「患者が考えた上で望み、意思を繰り返し表明し、いかなる圧力もない」場合にも認めて年400〜500件も実施されている(5.24朝日新聞)など、世界の各国で態様はさまざまながら安楽死は大きな問題となっているから、その延長に日本における法制化の問題もあるのだろう。

 私がこうした安楽死にまつわる意見にどちらかと言えば賛成であることは前に書いた。いわゆるスパケッテイ状態で意識のないまま天井を向いてベッドに固定されている生活なんぞは真っ平でもあるからである。
 ただこの尊厳死と言う言葉なり考え方には、人生、生き様、命、人間、社会、家族などなど、人が生きてきたことの一切の観念的な美しさが盛られていて、どこか胡散臭さのような臭いのしないでもない。そうした人間の人間らしさを告げる言葉の数々は、あたかも逆らうことの許されない神託のようなイメージを示しているような感じさえする。

 そのことはそのこととして尊厳死を否定するつもりはない。ただ最近どことなく疑問が湧いてきたのである。いやいやそんな風に言ったら嘘になるかも知れない。リビング・ウイルそのものに対して抱いている気持ちには少しも違わないからである。私の疑問とはむしろリビング・ウイルの前提となる医療と患者の関係についてである。

 尊厳死と呼ぼうがリビング・ウイルと呼ぼうが自らの死に対して自らが考えること自体は是として認めよう。なんならその選択は正しいと言ったっていい。だがそれは納得できる治療があってはじめて言える言葉ではないのだろうかとの思いが少しずつ私の心を侵食してきているのである。
 納得できる治療の意味をどう捉えるかは難しい問題だとは思う。だからと言って世界で一流の医師そして最高級の機材やスタッフによる治療を受けてこその納得だとするまでの考えを持っているわけではない。手塚治虫の名作漫画ブラックジャックや映画やテレビのゴッドハンドを持つ赤ひげ先生とも言われるような慈愛に満ちたドクターによる治療、そして優しく寄り添って泣いてくれる若い看護師の涙に囲まれた死を望んでいるわけでもない。

 ただそれにしても最近の医療はどこか患者から離れていっているような気がしてならない。医療費の削減や収入の増加が健康保険財政にとって急務であることも分かるし、そのためには保険点数の見直しや保険料の値上げなどと言った医師・患者・国民を巻き込んだ施策の必要性が目前に迫っていることも分からないではない。

 だが医師はいつの間にこんなにも患者や家族から信頼されない職業になってしまったのだろうか。「手遅れ医者」というのが落語にある。どんな軽症の患者がきても「手遅れだ。もう少しの早く来てくれれば・・・」の前置きを必ずしてから治療にかかるという医者の話である。つまりは自己の免責を第一に考えてから治療にとりかかるということであろう。
 これは落語だけの話だとは思うけれど、現実に治らない病気、治せない病気と言うのは今昔を問わずあったはずであり、あるはずである。ただ、医学の進歩は手遅れをなんとか救うような方向へどんどん進歩していった。死ぬと思われていた病気で人は死ななくなったことは事実であろう。死んで当たり前みたいに思われていた病気や怪我が、いつしか治って当たり前みたいに思われる時代が到来した。

 だから人は治せなかった医者を信頼しなくなったのだろうか。そして追い討ちをかけるように医療過誤が頻発し、情報公開などの制度もあって「ヒヤリ・ハット」の事例などが細かく国民の目に晒されるようになった。そして医療裁判が多発するようになり、患者勝訴がけっこう目立つようにもなってきた。
 特に最近は医療崩壊と言われるほどにも医師不足を中心とした「治療を受けられない状態」が頻発するようになってきた。救急患者を受け入れる病院が消えたり、救急車が何度も病院に受け入れを拒否される事例まで起こっている。

 また、商品などに対する苦情のような状態が教育現場に広がってきたかと思ったら、瞬く間に医療の現場にもモンスターと呼ばれる一種のクレーマーが頻発するようになってきているらしい。
 医者にも悪い奴はいるだろう。金儲けだけに走ったり、治療のミスを隠したり、言葉遣いや態度など人格的に問題のある医者だっていることだろう。

 それは医者だけに限らず教育者にだって公務員にだって同様である。そうした悪い人間の存在を許容するわけではないけれど、そうした事例がことさらに取り上げられる風潮と言うのは、どこかで信頼関係の切断が増加していっているからなのだろう。

 特に医師と患者の関係は信頼なくしては成立しないものがある。それが命であり、治療なのだと思う。尊厳死が法制化の方向に向かっていると言うが、実現した場合には恐らく「自らの選択」という面が強調されることだろう。「選択するのはその人です。希望しない人に押し付けるつもりはありません」、恐らく法律はそういう形になるのだろう。だからこそ人は自分の末期を権利として選べるのだとも・・・。

 そのことは分かる。だがここにも恐らく「自己責任」という得たいの知れない怪物が立ちふさがることだろう。間違いなく尊厳死の選択は、タイトルは分からないけれど「〇〇同意書」とも呼ばれる書面に、本人もしくは家族が自書し押印するのだろう。そして恐らくはその同意書のどこかには「この同意は本人の意思でいつでも破棄することができる」旨の一文が加えられていることだろう。

 人はどこまで自己決定できるのだろうか。決定後に迷うことはないのだろうか。自己決定が間違いだったと感じたときが痴呆状態だったり、例えば重篤で声も出せない状態だったらどうしたらいいのだろうか。私は移ろいやすい人の心と自らの命とそしてリビング・ウイルを重ね合わせたときに、その選択(自己決定)にどことない自信のなさが生じてしまうのである。理屈での選択と今まさに死に行こうとしている現実との狭間とは、つながっているようでどこか深い溝があるのではないのかとも思ってしまうのである。

 そこまで考える必要などないのかも知れない。ただ少なくともリビング・ウイルが機能する背景には、それを満足と呼ぶか、それとも腑に落ちると表現するか、はたまた了解とか分かるとかストンと落ちるなどの感情も含めて「患者本人の納得する医療」の存在だけは避けて通れないのではないだろうか。
 医者自身が自分の言葉で命について患者と語り合う環境にあること、もしくは死に瀕していて患者の意識が仮になくなっているとしても、そうなるまでにきちんと患者と向き合ってくれていたことなどへのあらかじめの信頼があってこそのリビング・ウイルだと思うのである。

 交通事故で私は瀕死の状態にある。救急車に乗せられた私はあちこちの病院から受け入れをことわられ、たどりついた病院でも、例えば治療を面倒くさがる医者にあっさりと「手遅れです」と宣告される。
 私の選んだリビング・ウイルは決してこんな状態を想定してのものではなかった・・・・。口も利けないベッドの上で「どこか違う、こんなはずじゃない・・・」、と私は無表情のまま叫ぶことになるのだろうか。

 死の自己決定には他者(例えば医師)による死(積極的な安楽死)か、それとも単なる治療停止などによる緩慢な自然死(消極的安楽死)かなども含めて、これからも悩ましい論議が続きそうである。



                          2008.5.24    佐々木利夫


            トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



リビング・ウイル