化粧品、食品、電化製品、ネットに金融商品などなど、私たちの回りには様々な環境や情報が渦まいている。そして識者の全部が「利用する人にはそうした情報を読み解く力が必要です」と付け加える。その通りだと思う。テレビで放映しているクリームを買う。スーパーで毎日の食事の用意をする。立派で便利な薄型テレビの宣伝に比べて我が家のブラウン管テレビはいかにも見劣りがするし、心なし色も濁ってきているような気がしないでもない。金だの株だの信託だのと横文字連ねた金融商品が賑やかだし電話での勧誘も多いけれど、税理士だからと言って金儲けの方法にまで秀でているわけではない。
 そして人はよく理解できていないまま見かけに手を出したり、契約書や約款をよく読まないまま宣伝やタイトルに惑わされてしまうことはいつの世にも習いとなっている。

 だから行政もメーカーも、購入する者が判断できるように様々な情報を商品に貼り付けることとした。そしてそうした情報を読み解く力を得て人は磐石な安全に守られることになると教えられてきた。
 でも本当にそれでいいのだろうか。人はそんなに情報を読み解く力を持っているのだろうか。情報が得られたことで人は即座に安全を手に入れることができるのだろうか。

 私はそうした情報に嘘があるのだから、その嘘を見破るための力が人々に必要だと言いたいのではない。いつの世にも嘘のはびこることは避けられない現実である。そうした嘘をきちんと見破る力が我々に備わっていることなど望むべくもないだろう。

 そうしたことを言いたいのではなくて、仮にそうした情報に嘘がないとしても人にその提供された情報を読み解く力が必要だと説く識者の意見にどことない不信感を抱いてしまうのである。

 さあ、スーパーへ出かけて今晩の食事の用意をしようか。なんでもいい、手に取った食品の包装には表にも裏にも山積みの情報が盛られている。発売元、原産地、製造月日、賞味期限などはまだいいだろう。だが例えば加工食品などにいたっては、原材料や添加物などの名称が所狭しと書かれている。
 恐らくその表記は法令などによって義務付けられているものなのだろう。そしてそれは行政が国民にとって必要な情報だと判断した上でメーカーによる表記を要求しているものなのだろう。

 だが私にはそこに書かれている原材料に関する知識だって不確かだし、ましてや色や味付けや保存期間延長などのために使用する添加物などにいたっては、そうした薬品などの横文字カタカナ文字など名前すら聞いたことのないものばかりである。つまり、私には今買おうとしている食品が今晩直ちに私の体内に摂取されるであろうことを理解しながらも、その食品を構成している内容がまるで理解できないのである。

 例えば構成されている原材料は配合量の多い順に表記しなければならないのだというが、そんなことすらも私は理解して食品包装の表示を眺めていたわけではなかった。ましてや書かれた添加物の目的や効果や妥当性や副作用などに関する知識など論外である。それじゃあ、中味が理解できないのだからその食品を買わないのか。そんなことはないのである。

 私だって事務所での昼飯や友人との飲み会の材料探しなどもあるのでそれなりの買い物はする。そうしたときに並んで買っていく主婦の姿を見る機会も多い。だが私同様にだれも賞味期限などはともかく添加物の表示などに眼を注ぐ者などいない。一人もいないと言い切ってしまったら間違いになるかも知れないけれど、そこまでチエックする客の姿などこれまでお目にかかったことがないのが実感である。つまり数多の表記は表記なしと同じ効果しか持っていないような気がしてならないのである。

 こうしたことは単に食品に限るものではない。電化製品だって金融商品だって意味は同じである。書かれた内容をきちんと理解して惑わされないようにすべきだという政府や識者の意見を間違いだとは思わない。
 だが本当にそうなのだろうか。多くの人々にそうした情報を読み解く力が備わっているのだと、政府や識者などは本当に信じた上で要求しているのだろうか。
 国民の多くが書かれた内容を理解することができるのだと、本当にそう思って様々な表示を命じ、理解できないのはそうした表記をきちんと理解できなかった、もしくは理解しようとしなかった者の自己責任だと言いたいのだろうか。

 「なんでもかんでも他人(ひと)任せ」はいかにも自主性のない無責任な生き様を表しているかのような言葉である。そしてそれに代る「自己責任」の語のなんと素晴らしく栄光に輝やいていることか。人は自己責任で生きていくべきだと言われた時、そのことに反論するのはとても難しい。

 権利であるとか人権という語の背後には、自立できること、そうして自己決定ができること、更に結果について自ら責任を負うことが余りにもはっきりと示されている。
 そうした結果を受け止めることが一人前の大人であり、大人になることであり、大人とは社会人であり、それこそが大人としての自覚なのだと誰もが信じようとしている。

 でも本当にそうなのだろうか。溢れるような情報に流されながら、その情報を理解できないこと、その情報を知らなかったこと、見逃していたこと、その情報を間違って理解していたことなどなど、そうしたことの全部が私個人に大人として要求されていることを私自身が守らなかったこととして、すべて自己責任の中に取り込まれてしまわなければならないことなのだろうか。

 私が老境に入ってきて、読むことや理解することについて段々と面倒くささが身についてきているせいかも知れないが、そうした情報のすべてについて自己責任と言う名の下に人々には読み解く力が必要なのだと、そう思い、思わせ、要求するのが現代社会なのだろうか。

 私が理解できないことを棚に上げてこんな言い方は身勝手かも知れないけれど、情報の数を増やすことで企業の責任に対する免罪符を与えるかのような今の制度は、どこか間違った方向へと進んでいっているのではないかと思えてならない。

 例えばある人がパソコンを買うなどといった場合のように、ある程度専門的な必要性なり目的があるときには買う方にも買うための知識が必要であり、同時に売るほうにもそうした必要に対応するような情報の提供が要求される場合も多いだろう。

 だがそうした場合と例えばスーパーで食料品を買う場合とはまるで違うのではないかと思うのである。もちろん食品にだってアレルギーや遺伝子組換え食品の問題など細かな情報の提供が必要とされる場合もあるだろう。アレルギーだって卵だけに反応する人もいれば、そば粉とピーナッツなどと言った特定の食品に反応する人もいることだろう。私にそうした知識はほとんどないので間違っているかも知れないけれど、原因物質が数十種類に及ぶ人だっているかも知れない。だからそうした人のためには含まれている原因物質のことごとくを表記しなければならないことの意味の分からないではない。

 でもそうした多様な人々の多様な要求を個別に満足させるためには、こうした何でもかんでも情報を羅列する手段以外に方法はないのだろうか。例えばアレルギーAだとかアレルギーBなどの数種類に分類して、食品としての一般的な安全性は当然の要求だから、そうした上で無表示はアレルギー原因物質の存否を考慮していない食品、A表示はどういう傾向の成分は含まれていないことを意味するとか、B表示は含まれている原因物質の全部を表示するなどの方法はとれないのだろうか。

 なかなかいい智恵が浮かばないのだが、何でもかんでも目の前にあらいざらい並べ立てて、「さあ、選ぶか選ばないか、危険か危険でないかの判断はあなた自身の責任で行ってください」とあからさまに宣言してしまうのは、どこか行政なりメーカーなりの責任回避になっているような気がしてならないのである。
 そうした傾向は食料や電化製品などの形ある「物」から離れて、例えば金融商品などのサービスにもそして医療現場での「インフォームドコンセプト」(説明と同意)などといった命の問題にまで広がってきている。

 「決断するのは本人しかありません」とする理屈の分からないではないのだが、人は提供された情報のすべてを理解して決断できるものなのだろうか。
 もっと単純に例えば「メーカーを信じる」、「行政指導を信じる」、「医者の言うことを信じる」、せめて「〇の表示のあるものは信頼できる」などの程度にまで少ない情報で自分を納得させられるような素直な世の中を望むことはないものねだりになってしまうのだろうか。

 情報は多いほどいいとする理論からは、どこかうさん臭さが漂ってくる。消費者を保護するためだと称して山のような情報が身の回りに氾濫するようになり、しかもその情報を読み取る能力を受手側にだけ求めるような時代は、社会としてどこか基本的な誤りを犯しているのではないだろうか。



                          2008.1.16    佐々木利夫


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