テレビ放送に変革が起きようとしている。現在のアナログ放送が2011年7月24日、つまりあと2年半少々で終了しデジタル放送に切り替えられるのである。
 世はあげてデジタル時代である。コンピューターそのものがデジタル信号を扱うことで成立している機器だけれど、私が記憶しているデジタルのはじまりは時計からだろうか。長針と短針で時刻を表示するシステムは柱時計はもとより懐中時計、目覚まし時計、腕時計まで当たり前のことだった。それがいつしか「数字と言う文字による表示」のスタイルが生活のかなりの部分へと侵入してくるようになった。

 それは小さいながらコンピューターが生活へ侵入してきたことを意味している。そして音楽はレコードからCDへと媒体を変え、携帯電話、インターネット、DVDなどなど、情報の伝達手段としてのデジタル化は止まるところを知らないまでに普及してきた。
 そしてデジタル化はテレビの送受信にまでその領域を広げ始めた。

 私はそうしたデジタル化の流れに反対したいと言うのではない。ただそうした変化を、受け手側に強制するやり方にどことない違和感を感じてしまうのである。
 変化を強制されることに違和感があると言うなら、そうした変化に従わなければいいじゃないかと思うかも知れない。その通りである。CDが気に食わなければカセットテープで音楽を楽しめばいいのであり、DVDが厭だったり見るための機器の購入に支障があると思うならビデオテープを愛用すればいいからである。もしカセットテープやビデオテープを利用していないのなら、そもそもCD・DVDへの変化に悩むことなどないはずだからである。

 たとえカセットやビデオの音質や画質がデジタル機器よりも悪かったり劣化したりすることがあったとしても、それはまさに自己責任による選択である。より良いもの、より便利なものがあって、そうした機能を利用したいと思うのならそうした機器の選択はそう願う人の責任において行うべきものだからである。

 ところが今回のテレビのデジタル化はこうした状況とまるで違うのである。デジタル化は国の施策による一方的な変更であり、残り2年半というタイムラグはともかくとして、その日を境にこれまでのテレビは完全に写らなくなってしまうのである。テレビは突如としてテレビでなくなってしまうのである。

 もちろん買換えると言う方法はある。デジタルに対応するテレビを新たに購入すれば、この問題は一挙に解決する。デジタル電波の届く範囲は、デジタル移行までに全国のほぼ98%程度に及ぶと言われているから、離島や山奥などの僅かな地域は別としてテレビは従来どおり見ることができる。

 しかし従来のテレビ、つまりアナログテレビはまるっきり使い道のないただの箱になってしまうのである。もちろんデジタル信号をアナログ信号に変換するためのコンバーターが現在も販売されている。価格は約1万5千円からと言われているから、それを購入してアナログテレビに接続すればただの箱ももとのテレビに復活することが可能のようである。
 それにしてもそうした変更のために、従来のアナログテレビ所有者は最大でデジタルテレビの購入、最低でもコンバーターの購入と取り付けをしなければならないのである。

 デジタル化のメリットは何か。恐らくは国の施策としては電波の有効利用があるのだろう。アナログ放送の電波利用は混信などの無駄が多く、もっと効率的な利用のための割り当てることで更なる電波の有効利用が拡大することを目的としているのかも知れない。
 情報のデジタル化は様々な分野へと拡大していっている。インターネットそのものがデジタルの塊りみたいなものだからそこで扱われる情報(文字、音楽、映像)のすべてだし、今では図書館における蔵書や図画、新聞社やテレビ局のデータそのものも同様である。

 そうしたデジタル化の流れを否定したいのではない。もちろん、どこかでアナログの曖昧模糊な風情や、時の流れに風化していく存在そのものにもそれはそれで認めていいのではないかとの思いがないではないけれど、経年劣化に耐える力を持つこのデジタル能力にはあなどれないものがある。

 それはそうなんだけれど、だからと言って古いテレビを捨てさせるような変換はどこか間違っているような気がしてならない。
 例えばラジオの時代が続いていて、ある時新しくテレビが登場したときにそのテレビを購入するかどうかを選択すると言う問題とはまるで違うと思うのである。今あるものを使えなくするような変化を、一方的に強制することにどこか納得できないものを感じるのである。

 しかもテレビのデジタル化による視聴者のメリットたるや、「映像がきれい」、「音質がクリア」くらいしかないのが現実である。もちろんこの他にも例えば双方向に情報通信ができるだとか、電子番組表や文字放送を見ることができるなどの利点も言われている。
 だがそうしたメリットをどれだけの人達が望んでいるだろうか。または、望まない人、現状でよしとする人の存在などまるで考えていないことがこのデジタル化にはあまりにもはっきりと見えている。

 なかにはテレビなど見ないという人もいるだろうから100%とは言えないだろうけれど、恐らくテレビは全世帯に普及していると言ってもいいだろう。そうした人々に向かって、一方的にある日突然にそのテレビが見られなくなると宣言することは、それが例えばテレビ局の倒産であるとか太陽からの電波障害によるなどの他律的な原因ならともかく、どこか横暴と言うか傲慢な態度になるのではないだろうか。

 デジタル化は視聴者からの要望ではなく、もっぱら国の施策として行うものではないかと思うのである。だとすれば、「使えるテレビを捨てさせる」ような変化は間違いではないだろうか。
 白黒テレビがカラーに変わった時代を私は経験してきた。だがそれは、カラー放送が見たいから新しくカラーテレビに買い換えたのであって、モノクロのままでいいと思うのなら今持っているテレビで従来どおりの放送を受信することが可能だったはずである。

 だから私は、少なくともデジタル化に期限を設けて、その日以後はテレビは見られなくなるという状態を許してはならないのではないかと思うのである。
 国の電波利用の効率化は遅れるかも知れない。情報の伝達システムの変革にも遅れる場合があるかも知れない。それでも理想的にはアナログテレビが経年劣化によってこの世に一台も残らなくなってしまうまでアナログ電波を流し続けるべきではないかと思うのである。

 そしてそれでもなお早期のデジタル化が必要だと国が望むなら、少なくともアナログ変換のコンバーターを国の責任で必要とする全世帯の全テレビに無償で取り付けるだけの用意をして、その上で国民に「デジタル化へのお願い」をすべき問題ではないかと思うのである。

 デジタルとは何かについて私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。こうしてパソコンに向かってダウンロードだのアップロードだのを繰り返していること、いやいやインターネットを利用していること自体がデジダルの恩恵だとは知りながらも、だからと言ってそのことが自身がデジタルを操作しているとの実感に結びついているわけではない。
 数字の0と1の組み合わせで情報を表示する二進法の意味を学んだことはあるけれど、それがデジタルの本質なのかどうかもよく分からないでいる。理論的には二進法よりも三進法のほうが情報伝達能力は高いとの話も聞いたことはあるけれど、これだけ記憶容量の高い媒体が生まれ、かつ、伝送速度も飛躍的に高くなっている現代なのだから二進法=デジタルと理解しても十分なのかも知れない。

 アナログからデジタルへの変化は、物事に対する連続から不連続への価値観の認識の変化だと言ってもいいだろう。0か1か、磁気が右回りか左回りか、反射するかしないか、白か黒か、そうした二元的な世界観で世の中はいつの間にか統一されようとしてきている。色彩は恐らく無限にあるはずなのだが、人の目では区別出来ないとの理屈をつけて数万と言う数値化されたデータの中にその全部を納めてしまう。

 「0」と「1」の間にも無限は存在するなどと夢のようなことを考えている限り、まだまだ私はアナログ人間であることから卒業できないのかも知れない。
 それにしてもテレビがデジタル化されると、番組の内容はどんな風に変わっていくのだろうか。「これを契機にテレビを見ないことにする」という選択肢を放棄してしまうのは、テレビに毒されている私の弱さをさらけ出すようでいささか情けないけれど、そこまでの覚悟は実のところない。

 でも「放送される内容が今までのアナログテレビと何にも変わらないのなら、いまのテレビのままでいい」とも真剣に考えているのである。

 



                                     2009.1.4    佐々木利夫


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