何気なく耳にする言葉でも、それが一過性ならそれなり聞き流してしまうことが多いのかも知れないけれど、コマーシャルなどの場合は同じ言葉が何度も繰り返されることになる。そうした時にふと気になるフレーズを耳にしてしまうと繰り返される度にどこかで違和感がつながってしまい、喉もとに引っかかった骨のような気持ちに襲われてしまうことがある。

 最近聞いたコマーシャルにこんなフレーズがあった。「北海道で生まれたことにもっと誇りを持とう」。作成者やスポンサーには申し訳ないのだが、テレビのコマーシャルタイムってのはトイレに利用するか、他に気に入った番組がないかチャンネル回して探すために利用することが多く、コマーシャルそのものをきちんと見る習慣が私にはあまり多くない。そんな中途半端な見方をしていながら、その一部分であるフレーズになんだかんだ理屈をこねるのは独断に過ぎることくらい承知の上である。

 ところで北海道生まれのことを北海道地方では道産子(どさんこ)と呼んでいる。もともと北海道で生まれた農耕馬につけられた名称だったのだが、農耕馬そのものがトラクターなどに取って代わられ荷物運搬などの作業用も含めて今ではその姿をみることはなくなっている。僅かに地面の橇(そり)を曳きながら着順を競う「ばんえい競馬」と呼ばれる競技くらいにしか道産馬の姿を見る機会はなくなっている。そうした現実的な変化が後押しした結果なのだろうけれど、道産子とは今では「北海道生まれの人」としての使われ方の方が多くなっている。つまり「江戸っ子」の呼称と同じように特定の地方で生まれた「人」に対する使われ方である。

 競馬は一般的にはサラブレッド系のいわゆる「軽種馬」による競争を示しているが、ばんえい競馬に出場する道産馬は足も太く体重も軽種馬の二倍近い1トンを超える力強さに満ちた「重種馬」による競技である。だからと言って人である道産子も同様にがっしりとしていて骨格が太い、ムキムキマンみたいな体躯を持っていることを意味しているわけではない。単に北海道生まれの北海道育ちくらいの意味で使っているだけである。だからそうした道産子であるとする出自そのものに「誇りを持とう」なんぞと改めて言われたところで、別に道産子を恥だと思っているわけではないのだから一層違和感が増幅してしまうのである。

 ところがこのコマーシャルを何度か耳にしているうちに、「北海道で生まれた」とは人のことではないのかも知れないと気づいた。「だからきちんと全部聞いてから言え」と言われてしまえば返す言葉がないのだけれど、このコマーシャルは北海道産の米をたくさん買おう、たくさん食べようというものだったからである。それでコマーシャルの言う「北海道生まれ」とは「人」ではなく、「米」ではないかと気づいたのである。

 実は北海道産米の評判はこれまであんまり芳しくなかった。もちろん今でも「コシヒカリ」や「ササニシキ」などが一般的には圧倒的な人気を持っており、秋田地方の米などにも人気が高まっているものの北海道産米は比較的価格の安い部類に入っている。
 だが最近米の品質の良さが少しずつ北の地域へと移動していっているとの話を聞いたことがある。これまでどちらかと言えば「まずい」とされてきた北海道産米の人気が高まってきているらしいのである。

 私の記憶によれば米の北限はせいぜいが北海道の中央部までであり、それより北の地方での米作は不可能とさへ言われていた。もちろん品質改良などの努力でその北限が少しずつ改良されてはきたのだろうが、耐寒性の品種は飯米としての適合性は低いと言われてきた。つまり寒い地方で作付けされる米は、一定の収量の確保と引き換えに味を犠牲にしてきたと言われてきたのである。だから北限を超えて作付けされる米は一般的な飯米ではなく、寒冷に強い「モチ米」などだったのである。

 それが最近、突然とも言うべき変化が訪れてきていると言われている。北海道産米の品質の向上が顕著になってきているのだそうである。もちろんまだ「コシヒカリ」や「ササキニシキ」までには及ばないようではあるけれど、少なくとも有名銘柄に「追いつけ、追い越せ」と言われるくらいの潜在的な力を持てるようになってきたとの話である。

 その原因には、もちろん飽くなき品種改良、つまり寒冷地でもおいしくて収量の多い品種の開発が続けられている結果によるものであろうことも否めないだろう。だが賞味の向上の背景には、そのこととは別のとても大きな原因があるという。
 それは北海道における気温の上昇である。つまり米作の自然条件としての北限が少しずつ北へ、北へと移動してきていると言うのである。そのことは逆に言うと北海道の気候そのものが新潟に近づいてきている、つまり新潟の気象が北海道に移動してきていることを意味している。
 しかしそのことはそんなに喜んでいいことではない。北海道の気温の上昇とは北海道固有の現象なのではなく、日本中の気温が平均的に高くなっていることの裏返しでもあるからである。

 「焼け米」と言う言葉がある。夏の猛暑などで米が変色して茶色になってしまうことを示す言葉である。その焼け米が最近多くなってきていると言うのである。一般的に焼け米は、収穫したモミをすぐに乾燥しないで積んでおくことで熱を持って変色したりつやがなくなったりすることを言うのだが、最近はそうした玄米の管理の仕方以外の原因で発生するようになってきたと言うのである。つまり従来起きなかった地方にまで高温障害が発生するようになってきたと言うのである。

 このことは例えば九州などでは焼け米が多くなってきて米作そのものの不適地になってきているのではないかとの報告があることや、「こしひかり」がかつては新潟県山北町が北限であったにもかかわらず今では山形、福島でも栽培されるようになってきているなどの事実からも分かる。

 なんでも地球温暖化に結び付けてしまうのは間違いだとは思うけれど、今年の2月7日オーストラリアでは観測史上最高の46度4分の気温を観測した。そしてそれとほぼ同時に起きた山林火災は多くの町の焼失と200人とも300人とも言われる死者を出した。
 北極点の氷が消え、南極大陸もまた氷山の融解で小さくなっていると言う。大型台風の多発や洪水被害の拡大などなど、どこか地球規模の異変が起きつつあることを否定できないような状況が私たち素人目にも見えるようになってきている。

 「北海道に生まれたことに誇りを持つ」との意味が、「道産米がおいくなりました。もっと食べましょう」にあるのだとしても、その背景に米作の北限の移動と言う自然現象があり、その北への移動の分だけ例えば九州における米作の南限も北へ移動しているのだとするなら、そんなに手放しで喜べる話ではない。
 何年か後には北海道でコシヒカリが栽培されるようになるのかも知れないけれど、その頃新潟が米作り不適地になってしまっていることだって考えられないではない。恐らくそんな現象は私が生きているであろうここ数年、数十年で具体的に表われてくることではないだろうけれど、だからと言って今の私たちがそうした道すじを変えていかなければ手遅れになることは否めない。

 どこかで人はその場で足踏みしながら今ある自身の姿を確かめておかないと、無反省に走り続けることのつけが否応なく回ってくること、そしてそれは自身のみならず自分の子孫へのつけになるかも知れないことだけは覚悟しておく必要があるだろう。
 「ゆっくり」、そして「足るを知る心」・・・、もしかしたらそうした思いが、少なくとも子孫へのつけを回避するための力になるかも知れない。単なる思いではなく一歩踏み出すことも含めて・・・。そうした行動を私たちが自力で踏み出すことができたとしたなら、その行動はもしかしたら「道産子の意地」や「道産子の誇り」につながることになるのかも知れない。



                                     2009.3.4    佐々木利夫


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道産子の誇り