今年も原爆の日がきて8月15日がやってきた。日本中、8月だけが戦争や平和を考える期間になってしまうような風潮にはいささか抵抗があるけれど、戦後64年、風化していくのは記憶だけではなく戦争を知る者の存在そのものが消えていっているのだから、何かの機会を捉えて風化を押し留めようとするのもまた必要なことかも知れない。

 今年の8月9日、長崎市長は原爆投下の式典における平和宣言の中で「歴史をつくる主役は、私たちひとりひとりです。指導者や政府だけに任せておいてはいけません」と読み上げた。
 確かにオバマ大統領は「核のない世界」を目指そうと世界中に訴えた。その発言はロシアと並ぶ最大の核保有国であるアメリカ大統領の口から発せられたという意味で、平和を望む多くの人々から驚きの発言として受け取られた。そしてその驚きの分だけ頼りにされ、期待されているものの、やや過剰期待になっていることも否めない。

 世界の核保有は2万数千発と言われ、そのほとんどを米ロの二カ国だけで持っていると言われている。ならばことは簡単である。持っている本人が捨てると言っているのだから、これほど簡単に実現させる手段は他に存在しないだろう。
 だが本当にそうか。言うほど簡単でないことくらい赤子だって分かることではないのか。それは核保有の歴史、そして保有数が次第にエスカレートしていった事実からもはっきりと分かる。

 核を現実に使用することは恐らくないだろうと言われている。それは何故か。保有しているからである。保有国が互いに「我国に向けて核が打ち込まれるかも知れない」との恐怖を抱くことが核不使用の背景にあるからである。つまり、核を持つこと、それも大量に持って必要ならどんな地域にも即座に対応できる状態を保つことが核を使用しないであろうことの保証になっているのである。そしてその保有を背景とした防衛力は時に「核の傘」と呼ばれ、核を持たない他国をも巻き込んで外交を含めた大きな力にまでなっている。

 そうした核不使用の均衡の状態をもし仮に「平和」と呼ぶのなら、その均衡を一方だけが自らの意思で破棄することなどあり得ないのではないだろうか。均衡による平和とはまさに恐怖の上に成り立っている危うい状態でしかない。そんな均衡を果たして一方だけが独断で破るような行動を取るだろうか。

 「平和が一番」、私たちは長い間その言葉を呪文のように唱えてきた。いやいや私たちだけではない。恐らく人が集団を作り始めた頃から、そして「平和」というような言葉や考えなどまだ存在しないほどの太古の昔から、人は平和を望んできたと言えるかも知れない。それにもかかわらず「人が人を殺し、国が国を押しつぶしていく状況」に少しも変化はなかった。
 何をもって戦争と言うのか、テロやパルチザンのような祖国を守るみたいな運動との違いなど私はきちんと説明することはできない。なぜなら、どんな戦争にも「祖国の平和を守る」みたいな大義名分の衣をいつもきちんと纏っているからである。それはテロも革命も抵抗も同様である。

 ところで戦争の意味が不明確で定義が難しいなら、逆に「平和」の意味はどうだろうか。「平和でない状態」そのものを「戦争」と呼ぶことだって可能かも知れないからである。だが「平和」の意味も位置も、それほど簡単に定義できるとはとても思えない。
 今、日本は平和なのだろうか。もし「平和だ」とするならば、それはどういう位置なり状態を指しているのだろうか。また仮に「平和じゃない」のだとすれば何が平和でないのだろうか。
 果たして人類にこれまで平和はあったのだろうか。あったのならそれはどんな形の平和だったのだろうか。ただここで「戦争のない状態」を平和と定義するなら、前述した「平和でない状態」を戦争と定義しようかとする提案と矛盾することになってしまうし、「三日間の平和」だとか「一年だけの平和」と言う考え方も承認しなければならなくなるだろう。

 私たちは安易に「戦争と平和」と言うようにこの二つを対立する観念として呼ぶことが多いけれど、戦争と平和と言うのはもしかしたらある状態を二分して説明する言葉ではないのかも知れない。
 例えぱ今ここに仮に「平和な国」があったとしよう。平和の定義をはっきりさせないまま「平和な国」を仮にしろ実現させてしまうのは論理の破綻のような気がするけれど、平和そのものが存在するとの前提を置くなら平和な国が架空にしろ存在することくらいは認めてもいいのではないだろうか。

 さてその「平和な国」はどんな国民で構成されているのだろうか。その国には外国からの脅威はおろか国内では一つも犯罪などないのだろうか。そしてそうした脅威や犯罪のないことは、軍隊であるとか国による警察権力などの強制によるものではなく、国民ひとりひとりの自らの意思で成立している状態なのだろうか。貧富の差もないのだろうか。共産主義がそうだと言い切るつもりはないが、国民皆平等で不満がないことが国民の意思で実現している状態を言うのだろうか。
 そうした国では、「努力」の評価はどうなっているのだろうか。他者よりも恵まれた生活を求めるような意思、恵まれていないことを悲しむことそのものが存在しないのだろうか。もし自分の家族が殺されたら、それでもその人はこの世が平和だと言うのだろうか。

 殺人だけではない。人の持つ恨み、嫉妬、羨望、野望、身勝手・・・、それをなんと呼ぼうが人はそれぞれが違った考えを持ち、そうした思いの下で行動している。そうした考えの中には、社会的に承認される思いもあるだろうけれど、「理不尽」な思い、「身勝手な思い」だって当然に存在しているはずである。なぜなら、それが人だからである。聖人君子だけが人なのではない。人はそれぞれが違う。だから「人」なのである。

 その国に一人でも「私は平和だと思えない」と思う国民がいたとしたら、それでもその国は果たして「平和」と言えるのだろうか。もしそれを平和と呼べると言うのなら、平和とは「多数決による一つの答えなのだ」と言い切ってもいいのだろうか。それとも全国民の一致こそが平和の要件なのだろうか。そんな金太郎飴みたいな全国民一致の国民集団なんてそもそも存在するのだろうか。もし存在するとするなら、そんな国を私は気味が悪くてとても平和とは思えないのであるが・・・。

 こうして考えてくると、「平和」と言うのは言葉遊び、観念だけのお遊び世界を示す言葉なのかも知れないと思えるようになってくる。つまり「行き着くことない空想の世界」にしか過ぎないのではないかと言うことである。
 もちろん仮に届かないにしても、そうした目標に向かうことが無意味だとは言えないかも知れない。だが平和であることをきちんと定義しないままに平和が実現すると信じているのだとしたら、それは幻想にしか過ぎないのではないかと思えてならない。あちこちで平和が唱えられている。そのことごとくを見果てぬ夢だと断ずるのは忍びないけれど、これまでの人類の歴史の中に「戦争」は間違いなくあったにしても、少なくとも「平和」はなかったのではないだろうか。それは単に過去だけではなく、未来も、それも永劫も含めて・・・。



                                     2009.8.22    佐々木利夫


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平和って何だろう