地上遥か400キロメートル上空に国際宇宙ステーションが一周約90分で地球を周回している。また月にも探査衛星「かぐや」が同じように月の軌道を周回している。それぞれがそれぞれ異なる目的を持っているとは思うけれど、時に地球の映像を送ってくれることがある。その映像に共通する地球は、青くてとても穏やかに見える。月も他の惑星もそして太陽や小惑星の映像すらも私たちは身近に見ることができるけれど、地球だけはまるで別世界であることを伝えてくれている。その穏やかさは恐らく地球の姿がいつも青く澄んでいることからきているのだろう。

 観念的には無数と言ってもいいほど宇宙に星は存在しているから、地球だけがその中で特別だとは思わないけれど、それでも知る限り水の惑星は地球だけである。地表面積の約70%が水だというから、地球はまさに水でできているのである。
 だがしかしその水はそのままでは人は利用することができない。水の97.5%は海水であり、残る2.5%の淡水も大部分は北極・南極の氷や氷河であったり地下深くにあって利用できない。私たちが飲用や農業や工業用水として利用できる水は、地球全体の水の僅か0.1%に過ぎないのだそうである。そして安全な水を飲めない人の数は世界で8人に1人、9億人にも及ぶと言われ、しかもその安全な水も減少の一途だという(5.25、朝日新聞、GLOBE面)。

 そんな安全と信じられている水にも、現代は確実に汚染が進んできている。先日のNHKの科学技術映像祭(5.23、教育)で放映された「黒い樹氷」は、冬の雲仙普賢岳にきらきらとまるで純粋無垢そのものにみえる白く輝く樹氷・霧氷が、ビーカーで溶かしたとたんに黒く濁った液体に変化する姿を示していた。雪を食べるなんてことは私が子供だった頃には日常だったような気がしているけれど、そんな行為など及びもつかぬほどの黒い水の原因は、遠く黄砂や中国大陸の汚染物質の越境によるものだとのことである。

 「風が吹けば桶屋がもうかる」は、確率的に無限小の現象を針小棒大にいくつも重ね合わせた笑い話である。だがそうした現象はもはや冗談ではなくなってきている。それが唯一の原因だとは思わないけれど、黄砂の発生は中国大陸の砂漠化によるものであり、砂漠化の原因にはその土地における家畜の過放牧があるという。そしてその家畜とは人が原料を採取するために増やしたカシミヤとしての山羊(ヤギ)の飼育である。
 一頭から僅か150グラムしか取れず、一着のセーターには約4頭が必要だとされるカシミヤは、世界で年間6500トンも生産されているという。こうしたすさまじいまでの人類の欲望が、巡り巡って中国大陸の砂漠化にもつながっているのである。

 この「黒い樹氷」の映像は砂漠化以外にも黄砂に含まれる微生物の拡散やオゾンの上昇にも触れていた。極地を中心としたオゾンホールの拡大が地球規模での紫外線被害を及ぼすことは既に報告されていることだが、それ以上にオゾンの上昇は植物の老化を促進することで森林のCo2吸収にも大きな影響を与えるのだそうである。

 また、昨年放映されたNHKスペシャル「プラネットアース」では、陸地の7%にしか過ぎないジャングルに全生物の種の50%が生存していると報じ、絶滅危惧種の多発に触れていた。陸地とは言ってもジャングル以外に砂漠も極地もヒマラヤのてっぺんもあるのだから、そのすべてを人間のせいにすることはできないかも知れないけれど、人の係わることの多くが、種の絶滅へと生物を追いやってきたことは否定できないような気がする。

 いつだったろうか。長江に次ぐ中国第二の大河「黄河」の水が、海に到達する前に地中へと消えてしまう映像を見たことがある。黄河の眺めはまさに大陸風景である。向こう岸さえ見えないほどにも大きくゆったりと流れる川の姿はまさに「河」であり、大陸そのものを象徴する豊かな風景でもある。それが目の前で消えてしまうのである。
 その原因が途中にあるダムの多さによるものなのか、それとも農業用水としての使い過ぎによるものなのか、更には源流たる山脈の降雪量や流域の降雨量の少なさによるものなのか、そこのところは知らない。だがあの海とも紛うばかりの大河が砂の中に忽然と消えてしまう映像は、物珍しさを超えて恐怖ですらあった。

 そんなにドラマチックな現象でなくたって、もしかしたらどこかで人目につかぬようにたくましく潜んでいるのかも知れないけれど、あんなにもありふれていた「雀」や「めだか」や「とんぼ」などの姿だって、少なくとも最近は身近に見ることが目に見えて少なくなってきているような気がする。
 まさに地球は壊れていっているのではないのだろうか。同じく人のやることでありながら、壊すことの容易さに比べて復活や再生のなんと遅々としていることか。いつしか人は自らの守るべき分を超えた。戻れない、そして戻せないまでにその分を超えた。人はあたかも自分を宇宙の支配者でもあるかのように錯覚しはじめている。

 聖書にこんな話がある。ソドムとゴモラの街が亡ぶことを神から知らされたロトは、夜が明ける前に妻と二人の娘を伴って脱出を図る。逃げるときにロトは神からの指示通り「後ろを振り返ってはいけない」と家族に伝える。だがロトの妻はその指示に反して振り返り、その姿は塩の柱になったという(創世記19章)。後ろを振り返ることを未練と呼ぶか、それとも過去への執着と呼ぶか、更には欲望へのこだわりとかエゴと呼んだほうが適切なのかは必ずしも分からないけれど、人はどこかで「してはいけないこと」の線を越えてしまったのではないだろうか。今でも「ロトの妻」と呼ばれる岩塩の柱は、死海の沿岸に残っているそうである。

 してはいけないことをした報いを人は今受けようとしている。人はどこかで「してはいけないこと」を自らに課すことを忘れた。いやいや忘れたのではない。忘れたふりをして自らの利益を探ろうとした。現実の利益に執着して未練を残した。塩の柱になった女の話は、執着から逃れられない人の愚かしさを伝えているのかも知れない。そしてそうした思いを断ち切れない限り、塩の柱が再び人の姿に戻ることは・・・ない。



                                     2009.5.29    佐々木利夫


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ロトの妻