インフルエンザA(H1N1型)が世界的に流行している。これまでの香港型やソ連型とは違う豚由来のインフルエンザで、人への感染としては始めてのウイルスのタイプであることから「新型」と呼ばれている。今年4月、メキシコに発生したこの病気は瞬く間にアメリカへ南米へヨーロッパ・アジアへと伝播していった。そして海外渡航者から日本にも飛び火したのは5月頃だったろうか。ちょうど夏に入ろうとする時期でもあり一時下火になったのだが、最近は沖縄の感染率を最大にして再び全国に広まろうとしている。

 新型のためワクチンの在庫が皆無であることや、このウイルスの増殖率が低いこともあってワクチンの製造が思うように進まないなどの問題も出てきている。世界的な流行になっているのだから外国でもワクチンの製造は始まっているものの、日本とは製造方法が異なるなどから安全性の確認、ワクチンによる事故が起きた場合の補償は国か輸入した製薬メーカーか、金に任せて輸入して発展途上国への供給が滞るなどは許されないなどのため、簡単には輸入もままならない状況のようである。
 また軽症患者が病院へ殺到すると、診察が必要な患者への対応がおろそかになるという懸念もある。

 そんなこんなで結局は不特定多数たる国民に対して、自らの自覚による予防策などを講じてもらわなければならないところにまできている。そのことはよく分かるのだが、周知と理解とが隔靴掻痒みたいにどことなく分かり難くなっているような気がしてならない。
 そもそも新型の意味はなんなのだろうか。これまでに人の間で流行したことがないとの意味は分かるけれど、このウィルス用に開発されたワクチンの効果もシーズン限りらしく、従来型のインフルエンザワクチンと何にも違わない。なんだか「新型、新型」とまるで宇宙人が向かってくるような気配である。

 @うがい
 うがいは昔から風邪には効果があるとして推奨されてきた行為である。うがい専用の薬液さえ市販されているくらいである。その効果について私は専門的な知識を有しているわけではないけれど、つまるところ喉と言うか気管支の入り口に付着するまたは付着して炎症を起こそうとしている細菌なりウイルスをうがい液によって洗い流すか殺菌してしまおうということであろう。
 なんとなく分かりやすい説明である。喉についているばい菌をうがいで流してしまえるのなら、場合によっては喉の炎症そのものが治るかもしれないし、炎症が治るということは風邪そのものが治ることにつながるかも知れないからである。

 ところがうがいが推奨されているのは日本だけで、諸外国では効果なしとして採用されていないと聞いた。それでネットでいくつか検索してみたのだが、ウイルスは体に侵入すると30分くらいで細胞に侵入して増殖を始めるので、うがいで表面を洗っても効果はないとの意見が多かった。中には日本固有の習慣で海外のガイドラインではうがいを推奨するような表現は出てこないとされていたり、WHO(世界保健機構)ですら推奨していないとの記事もあった。

 新型インフルエンザ対策として「うがい」の効果があるのかないのか、そこのところをきちんと実証しないまま、国が全国民にうがいせよと号令をかけているのにはどこか解せないものが残る。

 A 手洗い
 手洗いもまたうがいと並ぶ予防策とされている。ただ、インフルエンザウイルスは粘膜からは侵入するけれど皮膚などから感染することはないので、手についたウイルスを口や鼻から体内に入り込むことを防ぐ意味からも効果は認められているようである。
 そのことはいいのだか、これがいったん「推奨」という形で医者や識者などの口から公表されるとたんに現実離れをしたものになってしまう。

 「15秒以上かけて洗え」や「手のひらだけでなく手の甲や親指や爪の間まで洗え」は、まあそれなり理解できるとして、鼻や口などにあまり触れないようにだとか、自分専用のタオルを使え、トイレのドアの取っ手などに触れたときは必ず洗えなどとのたもうことにまで及んでくると、言ってることの意味は分かるけれど余りにも現実離れしているのではないかと思ってしまうのである。

 この意味は、折角洗っても自分以外の者が触れたタオルや取っ手などにはウイルスが付着している可能性がある、と言うことであろう。だが人が触れるのはタオルや取っ手だけではない。自分の鼻の頭を掻くときもあれば髪の毛に触ることだつてあるだろう。目をこすったり外出した洋服を室内着に着替えたり、電球のスイッチやテレビのリモコンや電話や携帯や新聞や・・・。日常生活と言うのは「触れて感染する」という側面から見るなら、「消毒されていない物体を触りまくる」と言うことでもあるのである。そんなことでいちいち手を洗うのだとしたら、人はまるで手洗いの脅迫障害にでも罹ったかのように休むことなく手を洗い続けていかなければならない。しかもそのうちに、石鹸にも、その容器にも、水道のコックにも触れられなくなってしまうのではないだろうか。

 B マスク
 マスクが流行りだしている。5月頃に始めてこの新型が国内に入ってきた頃には、薬店にもスーパーにも品切れになったほどである。これも識者によれば「口と鼻をきちんと覆ってマスク以外から空気が漏れることのないように装着しましょう」とのご神託である。
 ところでこんな用語は今ではどこでも使っていないかも知れないけれど、ウイルスという意味を私たちが学校で学んだ頃は、「ろ過性病原体」と名づけられていた。「ろ過性」とは「素焼きの陶器を通り抜けるほど小さい」と言う意味である。そんな無限小とも言えるような病原体を、マスクによって体内への侵入を防ぐことが可能なのだろうか。マスクの材質そのものは科学技術の進歩によってウイルスの侵入を防ぐことのできる素材が開発されているかも知れない。ただ材質はともかく、ぴったりと口と鼻に密着してマスクを通してのみ呼吸ができるという現実的な構造が可能なのだろうか。

 「従来のマスクは『耳バンド装着型』が多く、装着時に肌とマスクの間にすき間が生じます」。これは我が社の製品こそ安心だとするマスクのコマーシャルである(朝日新聞、9.19 18面全面広告)。しかもこの広告商品にすら読めないような小さな文字で、「・・・病気や感染症にかかるリスクを完全に回避することはできません」と注書きされているのである。

 街を歩く人たちの状態を見る限り肌との間にすき間の生じる耳バンド型がほとんどであり、しかもいい加減な装着をしている人も多く口の周りはすき間だらけのように見える。こんな状態で果たして防毒マスクのように外気と体内を完全に遮断する閉鎖的なシステムが構築できているとはどうしても思えないのである。インフルエンザに罹っている人がくしゃみをして飛沫を直接ばらまくような場合などはともかく、呼吸のたびに「ろ過性病原体」は自由に口や鼻から出入りできるのではないのだろうか。
 マスク姿の人は多い。だがそのことと「マスクが効果的に使われている」こととはまるで違うのではないだろうか。

 C 検診と新型の判定
 新型インフルエンザが拡大していくにつれて、例えば風邪の症状が表われた人に対しての診断にも影響が出てくると言われている。つまり「今の私の症状は新型インフルエンザなのかどうか検査し知らせろ」と言う要求の増加である。こうした要求に対して病院での混雑の緩和や検査キットが不足気味になっていること、更には感染初期では正確な判定が難しいことなどであり、既に「なんでもかんでも病院へ来るな」との広報が始まっている。
 だがそんな風に新型かどうかの確定診断を求めるようにしたのは国やマスコミの責任である。新型に対して余りにも警戒的な対策を求めたことから、学校も会社も交通機関も一人の患者の発生でパニック状態になっているからである。新型でなければ風邪引きと同じように本人の判断に任せるような対応でよかったのに対し、新型と判断されたとたんに学校ぐるみ、会社ぐるみでの対策が必要とされるような風潮が蔓延し始めている。

 つまり生徒の一人なり社員の一人が「新型」にかかっているかどうかは、本人はもとより学校や会社にとっての大問題であると言うことである。大問題とは学校なら全生徒への授業の中断や入試の延期や追試など、企業なら営業停止までをも含む組織全体の問題と言うことである。会社で仕事をしている者が熱っぽいと訴えた。さて、そうしたとき会社としては「知らんぷりを通すか」、「新型かどうかを判断してもらうか」を選択するしかないではないか。「知らんぷり」は問題外だとすると、どうしたって「新型」かどうかの判定は本人の症状を超えて会社の利益、場合によっては会社の存続にまで影響する大事な要素となる。だとすれば確定的な診断を求めるのは個人としても団体としても当然のことになってしまうのではないだろうか。

 D 携帯予約
 受診者が病院に多数押しかけると、院内感染の問題も発生する。そのため、ある地域では携帯電話による予約を始めたと言う。携帯やネットによる予約→受診順番の返信→時間を見計らって病院へ行き受診→待ち時間の短縮→待合室の混雑緩和→院内感染の減少の図式は良く分かる。だがどこかそうしたシステムはそうしたシステムを利用できない弱者の無視(もしくは切り捨て)になっているような気がしてならない。

 携帯を持っていない老人、またはそうした予約システムを知らない老人が、ある日熱っぽいので病院へ出かける。「待合室には2〜3人しかいないからすぐ診てもらえるな」と安堵したとたんに、受付の看護師から冷たく伝えられる。「あなたの順番は30番目ですから、あと〇時間ほどかかります」。「そんなこと言ったって具合が悪いからここに来たんだ」と抗議する老人。それもそうだと看護師が思って順番を繰り上げる、または決められた順番は守らなくてはとその言い分を拒否する。待たせるにしろ繰り上げるにしろ、どちらを選択してもどこかすっきりしないことは否めない。

 E インフルエンザによる死
 新型インフルエンザによる死者は9月25日現在19人と言われている(NHK教育、サイエンスゼロ、9月26日)。死者の定義は「新型インフルエンザに感染している者の死」と言う意味であって、インフルエンザによる直接的な死とは異なるようである。だからと言って感染している者が交通事故で死んだ場合にまでこうした死者数に含めることはないだろうが、「新型インフルエンザによる死」というものの定義をはっきりさせないことには、どこか新型に対する過度な誤解がどんどん広まっていくような気がしてならない。

 もちろん「死」は個であって数ではない。そはさりながら、危険の指標として死者数もまた一つの意味を持っている。新型でない、つまり通常の季節型インフルエンザによる直接的な死者数は、日本では年間約1000人だと言われている。そして何らかの形でインフルエンザが影響を与えたと思われる死者(学術的には超過死亡と名づけているのだそうである)を含めるとその数は年間1万人にも及ぶとされている。
 新型はまさに新しい流行の危機を招こうとしているのだから、それなりの対策は必要ではあるけれど、国もマスコミも死の意味をもう少し厳密に、そして正確に伝える必要があるのではないだろうか。今の報道の姿勢はいたずらにパニックを引き起こすだけにしか過ぎないような気がしてならないのである。

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 間もなく冬である。新型インフルエンザはその名の通り免疫を持つ者がいないこともあって、感染者数は秋になって急激に増加し始め、あと数週間でピークを迎えるのではないかとの報道すらある。日本でも間もなくワクチンの投与が始まるらしいが、絶対数が不足していることから医療関係者や警察官などを優先するとの、いわゆるトリアージが論議されている。
 そうした順位にも様々な意見が出始めている。つまり優先順位の先陣争いである。子どもが一番、いやいや老人が一番、それよりも妊産婦や糖尿病患者のほうを優先すべきだなどなど・・・。

 そうした多様な意見が出る背景には、新型インフルエンザに対する正しい知識なり予防についての確立した情報などがきちんと国民に知らされていないことも一因として上げられるのではないだろうか。
 マスコミによる「新型インフルエンザは怖い」と言うムードが先行し、醸成されつつある。新型に対するいたずらな恐怖は、逆に普通の風邪や季節性インフルエンザと判定された場合の過度の安心感、場合によっては無防備さを誘発させてしまうような気がしてならない。もしかしたら新型でないインフルエンザのほうが危険性が高いケースだってあるかも知れないのにである。行政ももちろんのことではあるけれど、マスコミにも科学的な検証によるしっかりした報道が求められている。



                                     2009.9.30    佐々木利夫


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