私はまるで知らなかったのだが、和歌山県太地町(たいじちょう)ではイルカ漁、そしてそのイルカを食べる習慣があるのだそうである。もともとこの地は昔から捕鯨の町として有名であり、考えてみれば北海道の極洋捕鯨や室戸岬のよさこいに歌われるクジラなど、日本とクジラとは歴史的に見ても強いつながりがあったことはすぐに分かることができる。
 イルカはクジラと同じ哺乳類、と言うよりはむしろイルカはクジラの一種でもあるから、太地町のイルカ漁もこうした捕鯨の歴史と密接なつながりを持っているのかも知れない。そうしたイルカとの付き合いが現在でもどの程度続いているのか、どの程度住民と密着しているのかについて私はまるで知らない。スーパーでイルカの肉が売られているとの話も聞いているが、そもそも「イルカを食う」ことそのものが私にとって始めて聞く話だったからでもある。

 ところがこうした事実がアメリカに伝わり、捕鯨反対として国際会議でも提起されている理屈と同じような見解から、イルカ漁を告発するドキュメント映画が東京で公開されたようである。その映像を私は見ていないので、その告発の意図であるとか具体的主張についても同様にまるで無知である。
 だが、「殺されるイルカが血しぶきをあげる様子が映されていて、漁が残酷だと米国では批判する声が強い」(朝日新聞、’09.10.25、「イルカ漁映画 告発を『食』再考の契機に」、新田時也、東海大海洋学部講師)とする意見もあることだから、捕鯨反対と同じような立場にある者のアピールであろうことは容易に推察がつく。

 ところで上述の新聞投稿における論者の意見は、基本的にはイルカ漁の正当性を訴えようとしているのだが、その視点がどうも映画などでの主張とかみ合わないような気がしてならない。それは論者の視点が、「・・・太地町はイルカだけでなく、捕鯨の歴史も長い。400年に及ぶといわれるその歴史を調査(した結果)捕鯨もイルカ漁も・・・人々の命をつなぐためだったということも分かった。当たり前のことだが、むやみな殺生をしているわけではない。だからこそ・・・」と話が続いていってしまっているからである。

 前にも言ったように私はこの映画を見ていないから映画との対立点を踏まえたうえでの反論はできないのだが、例えば捕鯨に反対して南極海での日本の調査捕鯨に実力で阻止・妨害している集団の意見であるとか、または国際捕鯨会議などで捕獲数の制限をしようとしいる意見などを総合すると、反捕鯨の主張はこの論者の意見とは無関係なのではないかと思うのである。
 つまり、捕鯨反対の意見は、決して捕鯨そのものが「むやみな殺生」であることに論拠を置いているのではないのではないかということである。何をもって「むやみな殺生」と呼ぶかは見解の分かれる部分もあるとは思うけれど、彼等は日本が「むやみやたらにクジラやイルカを殺している」ことを反対の根拠としているわけではない思うのである。

 例えばそうした反対意見の根拠が、単に「命の尊厳から見て生き物を殺すべきでない」ことにあるのだとするならそのことに反論していけばいいのではないだろうか。そしてまた仮に「生き物を殺すことはかわいそうだから許すべきでない」にしても、「哺乳類の殺戮は残酷だ」にあるのだとしても、更には「イルカだけはとっても可愛い動物だから」にあるのだとしても、それぞれにそうした主張にかみ合う反論をしていく必要があるのではないかと思うのである。

 世界には様々な食の文化がある。いわゆる「ゲテモノ食い」だと私たちが思っていることだって、それが世界の共通の考えになっているとは限らない。数十年も前になるけれど、東京で一年研修を受けていたときに、友人に誘われて新宿でそうしたゲテモノ食いの専門店に案内されたことがある。何を食べたのかはほとんど忘れてしまっているけれど、イナゴやその幼虫、それに蛙の足などの記憶が僅かに残っている。

 話でしか知らないけれど、最近の話題によると中国では冬に向かって犬の肉が人気だと言うし、鳩の肉などもフランスでは高級な食材だとの話しも聞いた。そのほか猿の脳みそだの、ツバメの巣だの、ゴキブリみたいな虫を乾燥させたたものなど、テレビを見ていると世界には私たちの想像を超えるような多様な食材が溢れていることが分かる。もっとも日本人だって、しろうおの踊り食いだの鯉やイカの生き作りなど、けっこう残酷な食習慣を持っているような気がしているから世界とそれほど違いがあるとは思えない。

 ところがそうしたイルカ食いや捕鯨に反対する意見に対して、単に「イルカやクジラを食べるのは日本人の長い歴史的な食習慣である」との見解だけで封じ込めようとするのは無理なのではないだろうか。それはまさにそうした見解では相手はまるで納得していないことが、今年もまた捕鯨に反対の立場をとる国際的なNPOが日本の調査捕鯨船の出港に呼応して、それを実力で妨害するための船を昨年の一隻から二隻に増やして外国の港を出発したと言う報道からも分かる。つまり、互いの理屈がまるでかみ合っていないと言うことなのである。

 私にもそうしたかみ合わないことの根源をきちんと知ることはできないけれど、一つだけ想像できることがある。それは現代人のほとんどが罹患しているであろう「食への驕り」である。そう思った根拠は、ニュースで捕鯨反対などの背景に「日本は調査捕鯨の名の下に商業捕鯨をしているとの不信感がある」と報道していたからである。

 商業捕鯨とは何か?。簡単なことである。つまりはクジラを食うことである。クジラを食う人のためにクジラを売ることである。そうした売買を通じて金を儲けることである。命が、例えそれが動物の命だとしても人がそのことで金を稼げると思い込んだとたんにその行為は商業行為になるのである。
 そんなことは例えば「クジラベーコンがお得です、ナツカシーイ、ヤスーイ!、高たんぱく低カロリー」などとひんぱんに絶叫しているテレビコマーシャルを聞いていればすぐに分かる。調査捕鯨以外にクジラ肉が市場に出回るシステム(例えば適正な輸入ルートなど)が存在しているのかどうか私は知らない。だが少なくとも私の意識の中には、調査捕鯨のクジラの肉が通販で無制限に販売され誰もが購入できるような、そんな商業活動システムが現実に存在しているように見えて仕方がないのである。

 人の持つ驕りの一つには、「食べること」の中にあまりにも多様性を求めてしまったことがあるのかも知れない。恐らくは人は他の多くの生物と同じように、食べることを「自らの命」と同じレベルとして感じるところから出発したはずである。「食べなければ死ぬ」、そんな単純な方程式こそが食うことの基本、そして唯一の目的だったはずである。
 それにもかかわらず人はやがて「食」の中に様々な多様性を見つけるようになった。そしてその多様性の中でも取り返しのつかない罪は「食を楽しむ」ことの発見だったかも知れない。

 「命」から遊離した「食べること」は、まるで病原菌のように人類に増殖し始めていった。「もっと旨いものを・・・」の欲望は止まるところを知らぬまでに世界へと拡散していった。それも一方に飢餓が存在することなど根こそぎ忘却の彼方へと押しやったままに・・・。
 そんな食への暴走が、こうしたイルカ食いであるとか捕鯨への反発の背景にあるのではないのだろうか。それは決して「食は文化である」なんぞと言う背広にネクタイ姿による声明や、晩餐会での華麗な料理の数々、そして飽食と言う語すらつつましやかに聞こえるような現代の食に対する姿勢、これでもかと見せつけられるテレビ番組の大食い競争出演者のうんざりしたような満腹顔などを示しながらでは決して説得できない対立であり、それがここまでに互いをエスカレートさせてしまっ原因になっているのではないだろうか。

 もちろんそうした飽食の片鱗は間違いなく私にも引き継がれている。「昼飯になに食おう」、「今晩の夕食は何にしよう」から始まって、居酒屋でメニューの羅列を前にあれこれ迷う。結局それほど突飛な選択にはならないものの、そうしたいわゆる「食い物に迷う」ことそのものが人にとっての日常でありながらも、もしかしたら人間の雑食性からくる一つの救いがたい驕りの姿なのかも知れないと、ふと思うことがある。


                                     2009.12.8    佐々木利夫


 これを書き終えて数日後の新聞にこんな投稿がされていた。私はここに記載された事実の真偽を知らない。だが日本の調査捕鯨と称するものの実態が、少なくとも私が思っているほど純粋に科学的な要請に基づくものかどうかはもう少し検証してみる必要があるように思える。

 「・・・そもそも毎年400〜500頭もの鯨を捕獲するのは、鯨肉を売って船団経費を賄うような仕組みで始められたからである。調査捕鯨はIWC(国際捕鯨委員会)条約第8条が加盟国の裁量で科学調査を認めているのが根拠だが、日本のやり方は当初から目的と手段が逆転しており、諸外国からは『科学の名を騙る商業捕鯨』と非難されている」(朝日新聞、09.12.13、米本昌平、東京大先端科学技術研究センター特任教授、「調査捕鯨 乏しい成果、すぐに廃止を」)



                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



イルカ喰い