ポカッと何をすることもない暇な時間が生まれることがある。テレビドラマの再放送を見る気にもなれないし、だからと言ってスポーツ番組やバラエティー番組なども苦手である。ならば勉強でも・・・とならないのは一人事務所で気ままに過ごしている老税理士の意思の弱さかも知れない。
 ともあれそうした時にNHK教育テレビの高校講座にぶつかることがある。コーヒーすすりながら、聞くともなしに数学だの化学だの歴史だのと言った番組を無責任に見ているのも、まあそんなに悪いものではない。

 そんな時に歴史の講座で、江戸末期から明治にかけた諸外国との外交を取り上げた番組にぶつかった。激動の時代だから外交以外にもテーマは多々あるだろうが、その日の話題は「治外法権」であった。治外法権とは、外国との間で一国の国内であってもその国の三権(立法、行政、司法)が完全には及ばないとする特権である。日本は鎖国を長く続けていたことから、江戸時代まではそれほど大きな問題となることは少なかったが、開国の圧力が強まり明治と改元された1868年の10年前、安政5(1858)年にアメリカ合衆国と締結した日米通商条約を皮切りに、イギリス・オランダ・ロシア・フランスと相次いで締結したいわゆる安政5カ国条約など、外国との条約にはことごとく治外法権の問題が含まれていたと言われている。

 そうした外国との条約について私はつぶさには知らないけれど、そうした条約が少なくとも日本に不利な形で結ばれていたことは、「国」対「国」としての対等な地位に基づくものではないことを示していた。そうした事実はむしろ日本が劣等な民族としての評価でしかなかったことは、私の受けた授業でも教わったような気がしているし、私自身も「弱小国の惨めさの表れ」みたいな意識を長く抱いていた。そしてそうした治外法権からの脱却こそが近代日本への歩みでもあると・・・。

 そうした理解の仕方はある意味間違いではなかったと思う。ところで治外法権の具体的な表われは司法権に一番はっきりと目立つような気がする。つまり、外国人の犯した犯罪に対して、日本の法律なり裁判権が及ばないとする場面に分かりやすい形として表われてくるからである。それはまさに、列強が黒船と大砲で脅しながら自国の有利さを条約と言う形で日本に強制したことと同じではないかと思えたからである。

 ところがそうした背景がまるでなかったとは言えないかも知れないけれど、本当は少し違うのではないかと思えるような事実にぶつかった。それはそうした治外法権の背景に、当時の日本における余りにも原始的な司法制度が残されたままになっていたことにも原因があると知らされたからである。その原始的な司法とは何か、それこそが自白偏重のシステムであった。

 様々な国の司法制度の中で拷問もまた国を問わずに存在していたことは、映画や小説ばかりではなく、例えば博物館などに陳列されている拷問に使われた様々な道具などからも知ることができる。そして拷問の目的はたった一つ、自白である。「私がやりました」の一言欲しさに、権力は様々な手段で自白を求め、それを根拠に犯罪を裁こうとした。
 何が犯罪かを問うことはすまい。魔女狩りにしろ、聖書に反する意見にしろ、さらには権力者に異を唱える行為そのものだって、多くの場合犯罪とされたのだし、そうした系譜は東京軍事裁判などにまで連なっているようにも思えるからである。

 考えてみれば日本の歴史もまるで違わなかった。つい最近、大岡越前守をめぐる歴史的な検証をしているテレビ番組に出会ったときもそうであった。密室と言う白州に囲まれた裁判の場は、いかに裁判官たる奉行が温情深く世情に通じ正義を標榜していたとしても、その判決の背景には「自白こそが真実への道」が深く刻まれていたことを示していたからである。

 もちろんそうした自白偏重の司法制度は、フランス革命や南北戦争など多くの変革を経て世界中で変わってきた。そうした変化は私などは僅かな読書と多くの映画やテレビドラマなどで知るしかないけれど、それでも国民の意思がそうした変化を望んだことも含めて知ることができる。そうした流れは現在施行されている我国の裁判員制度にも引き継がれていると言ってもいいであろう。

 ところで、日本の近代化は明治維新と言う僅か100年少々前から始まったに過ぎなかった。それまでは水漬け、抱き石などと言った道具を用いて、犯罪人と思われる容疑者を自白に追い込むことが司法における取り調べ官の主要な仕事であった。しかも、そうした自白の意味に少しの疑問を持つことなく明治憲法下でもそのまま維持されてきたのが日本の司法制度だったのである。

 そんな無茶な司法制度の下へ、「仮に犯罪者であったとしても我国の国民を容疑者のまま無防備に放り出すわけにはいかない」、これが諸外国の考えた治外法権の背景にあったのである。「証拠に基づいた正しい手続きによる司法制度」なくして、日本の近代化もありえなかったのだし、そうした意味で治外法権は条約締結国の自国民の基本的人権を守る正当な手段でもあったのである。

 戦争を経て日本もようやく世界の仲間入りができるようになった。現行憲法は「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、叉は刑罰を科せられない」(38条3項)と定めて自白の証拠能力を否定し、刑事訴訟法もこれに準じて整備された(301条など)。

 だが、本当に自白偏重の思いは日本からなくなったのだろうか。確かに拷問による自白の強要はなくなったかも知れない。しかしその事実を私は直接に知ることはできない。そのために犯罪を犯すことなど問題外だし、弁護士などとして司法に関与する資格もまた私は持っていないからである。
 でも最近になって冤罪が分かってきた足利事件であるとか富山の痴漢事件などの報道を見ていると、自白の持つ重さを単に容疑者や弁護士などが主張する警察や検察の強引な捜査手法という非難だけに済ませておいていいものだとは思えないものが残るのである。日本人の中に、抜きがたい自白への特別な思いが潜んでいるように思えてならないのである。

 そうした思いの背景には、毎日のように氾濫している刑事ものというのか探偵ものなどのテレビドラマがある。こんなドラマから日本の司法制度を論ずることなど場違いの謗りを免れないかも知れないけれど、こうしたドラマを見ていると、日本人は今でも昔ながらの自白にこだわっているのではないかと思える場面が余りにも多すぎるような気がしてならない。もちろん、拷問や取調室での人権無視の糾弾と言うものの存在があるとすればそれは論外である。そうした意味での自白が日本人にも許されないものとして定着していることに異論はない。
 しかし、どんな刑事も、どんな探偵も、どんな弁護士も、どんな被害者も、ドラマに登場する正義の味方を自認するどんな主人公も、必ずと言ってもいいほどに口にする言葉がみんな同じだからである。

 それは「本当のことを言ってほしい」と、疑わしい人物や冤罪をかけられているかもしれない容疑者に向かって繰り返すことである。「どうか真実を・・・」、「本当のことを教えてください・・・」、「死んだ〇〇さんは喜ぶでしょうか・・・」などなど、手を変え品を変えて犯罪の中心にいる人物に告白を迫るのである。それが愛の説得と呼ぶべきか、それとも権力による脅迫と名づけるべきかを問わずにである。ただ少なくともそうした容疑者や関係者の自白と言う形でドラマは円満に解決へと向かっていくのである。
 だがこれもまた一種の自白の誘導であり強要である。拷問はなくなったかも知れないが(いやまだ現に残っている気配もあるが)、自白への圧力は少しも弱まることなく現代にも生き残っている。

 場合によっては証拠を示すことなどなく、可能性だけが先走りしてることだって多々ある。例えば、京都で人が殺された。東京に住む容疑者はそのとき北海道へ出張していたと主張し、証人や写真などを出す。ここからが名探偵の登場である。ローカル線を含めた列車やバスやフェリーなどの時刻表や、海外の時差を使ったからくりまで駆使して、名探偵はそのアリバイを崩そうと必死である。どこで降り、どこで乗り換えて、どこでレンタカーを用意し、場合によっては池や海岸を泳いで移動するなどの可能性まで綿密に調べ上げ、そしてついに犯行が可能であることを推理する。

 だがドラマはここで唐突に終わる。「犯罪が可能である」ことと「その人物が実行犯である」こととはまるで違うと思うだが、そんなことに名探偵は思い及ぶことさえしない。2時間完結ドラマが多いから、どこかで山場を作るためにはこれでいいと感じているのかも知れないけれど、それを契機に犯人の口から延々と涙ながらに犯罪の動機や一部始終が語られ始めるのは、まさに自白偏重の名残りが現代でも生き残っていることの証左であるような気がしてならない。

 治外法権は今でも存在している。例えば日米地位協定に基づいて、容疑者と思われる軍人の日本への引渡しを拒否できるなどの措置である。こうした措置は見かけ上は「アメリカに従属する日本のみじめな姿」としてマスコミに捉えられがちであるし、事実そうした意味合いが含まれている場合があるのかも知れない。しかしもっと奥には、自白よりは証拠を基本とするアメリカの司法制度と、無意識にもせよ容疑者の自白を望んでいる日本の国民感情に基づく司法制度の対立が隠されているのではないだろうか。



                                     2009.10.8    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



治外法権と自白