人はいつから「勝つこと」の意味をこんなにも狭隘な範囲に押し込めるようになってしまったのだろうか。いつの間にか人は「勝ち組」になることだけに執心し、勝ち組になれなかった者を一まとめにして「負け組」と呼ぶようになった。当たり前に生活し、当たり前の中に自分を置くことで満足を感じてきた多くの人に対して、人は「勝ち負け」をその中に押し込めようとした。そしてその勝ち負けの基準を経済的な結果、つまり金持ちか否かによる判定のみに置くようになった。

 金は確かに力である。そのことに異論を唱えることなど許されないまでに現代はその中にどっぷりと浸かっている。恐らくそうした現実は、世の中のさまざまが物々交換から貨幣経済に変わってからこのかた、社会の基礎を支えるまでに浸透している事実を証として示しているのかも知れない。
 「金が敵の世の中」は江戸時代から続いている言葉のようだが、この言葉を知らないであろう現代の子供たちにまで、このフレーズに続く言葉が「早く敵に巡り逢いたい」であることの意味まで含めてしっかりと広まってしまっている。

 そうした考えは子供や若い人だけに限るものではない。最近の新聞投稿である。「妻をなくして10年以上。そろそろ再婚したいと思って中高年の交流会に参加し、50代の女性に言われた。『夫の浮気で離婚したけど、仕事はパートぐらいしかなかった。老後が不安なので、庭付きの一軒家を持っている生活に不安のない、相性の合う人と結婚したい。家庭菜園をしたい』。つまり彼女は、こういっている。『私は貧乏なので金持ちの男と結婚したい』と。縁がなかったとあきらめた。・・・」(朝日新聞、8.1、65歳男性)
 この男は情けないことに結局「貧しい者は貧しい者同士で『助け合い結婚』しかないのではないか」と結論付けることで金銭の問題から回避してしまうなど、すっかり負け組意識に侵食されてしまっている。負け組意識にどっぷりと浸かることは、同時に勝ち組を自らとは無関係な存在として承認することでもある。

 マネーゲームは必然的にゼロサムゲームであろう。仮に儲け.る者と損をする者との間にタイムラグがあって、総和の期間に数年を要するとしても、結果として損得の合計はゼロになるのではないだろうか。株で儲ける勝者の裏にはそれと同じだけの損失を被った敗者の存在があると思うのは、経済の本質を知らない者の身勝手な理屈なのだろうか。

 マネーゲームは世界中を席巻している。新しい金融商品の開発は金融機関だけのものではなく、学者や大学生の研究にまで及び経済学者はノーベル賞にまで届く勢いである。経済だの財政などの言葉は今では誰でも知っているようになっているが、最近は「金融工学」などと耳慣れぬ言葉さえ流行し始めている。

 政権野党の自民党が危ない、そんな気配を感じる間もなく始まる衆議院選挙だが(8.30投票日)、各党によるマイフェスト合戦がけたたましくなってきている。さてそんなマニフェストの載った自民党の掲げる一文。
 「女性や高齢者の労働参加で、10年で家庭の手取りを100万円増やし、1人当たり国民所得を世界のトップクラスに引き上げる」

 またしても日本はカネこそが勝者の条件なのだと、バブル崩壊の教訓などどこ吹く風、同じ轍を踏もうとしているのだろうか。この自民党の掲げる一文は、政党そのものがそう思っていることを示しているだけではない。そうした思いが国民からの支持を受けるだろうとの思いにつながるものでもある。民主党の掲げるマニフェストも大同小異である。子育てや農家などに対する税金のバラマキは、単に与野党とも互いに財源の裏づけがないとの批判合戦を繰り返すばかりである。だがその前に日本人とは何なのか、生きることであるとか、信ずることなどの心の問題を、私たちはもう少し自らのテーマとして探っていく必要があるのではないだろうか。



                                     2009.8.5    佐々木利夫


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