今でこそICレコーダーなどと称して親指の先程度の大きさの装置で何時間も録音できる機器があるけれど、私がそうした録音装置に出会ったのはテープレコーダーという機械が最初である。もう何十年も前のことで、最初はオープンリール(円盤をセットする軸が左右に二本ついていて、一方にテープの巻いてある円盤を、他方にそれを巻き取る空の円盤をとりつけるものである)がそもそもであった。そうしたテープはそのうちカセットと呼ばれる一体型のものになってしまうのだが、一つのケースの中にテープの供給と巻き取りが組み込まれていたから理屈はオープンリールと同じである。

 テープがカセット化されたことで、録音装置は瞬く間に小型化し安価になっていった。私はそうしたテープレコーダーを持参して旅にも出たことがある。音楽を聞くと言うよりは旅先での例えば列車のアナウンスであるとかバスガイドの歌声などを録音して記念に残すためである。そうした手軽な使い方は、授業のノート作りに利用したいと思ったことがある。

 職場に入って10数年を経て東京へ一年間の研修に出かけたときのことである。好きな講義なのに教授の早口や板書の多さなどでノートがついていけないことがあった。ノートを取ることに追われて教授の講義に耳を傾ける暇がないのである。録音はまさにこうしたときのためにあるのではないかと感じた。講義の最中は板書はメモするけれど教授の話は聞くだけにし、ノートの整理は夕食が終わってからの勉強タイムを活用するという方法である。
 もちろんテープを聞きながらのノート整理だから、テープの再生に要する時間、更にはテープを止めて教授の話を書き取るなどの時間が余計にかかるから、非効率であることは分かっている。しかし、好きな講義でありその程度の苦労など、楽しみみたいなものである。

 こんなひらめきに有頂天になった男は、早速教室にマイクロフォン内臓の小型カセットテープレコーダーを持ち込んだ。まだクーラーなどは設置されていなくて、扇風機が天井でゆっくりと回る夏の暑い昼下がりの教室だったような気がしている。電池も新品を用意したし、テープの頭出しの位置もしっかりと確認した。録音に必要な時間だけの交換用テープも用意した。講義が始まった。テープのスイッチを入れる。ゆっくりと巻き取られるテープの動きと赤く点灯している小さな明かりが、録音が順調に進んでいることを示している。あとはテープ交換のタイミングさえ忘れなければ完璧である。講義も順調に進んでいく。

 その日の講義は終了し、録音もどうやら問題なく終了した。その他の授業も含めて今日の授業は全部終わり、風呂にも入った、飯も食った。残るは寝るまでの自習時間である。早速テープの再生に挑戦する。同室の仲間に迷惑をかけるわけにはいかないから、イヤホーンを耳にノートへと向かう。

 なんと、カラスがうるさい。教授の声は確かに入っているのだが、それと同じくらいの音量でカラスが鳴きわめいているのである。少しテープを先送りしてみるが、カラスが鳴き止む様子はない。講義の内容が聞こえないというのではない。だがしかし、教授の声よりも一層高い調子でカラスが叫んでいるのである。研修寮の同室の仲間も互いに背中合わせで机のつくりつけになっている蛍光スタンドに向かっている。一年間勉強するためにはるばる札幌から東京へ出てきたのだし、いま挑戦しているのは私の好きな講義なのだからもう少し熱中しなければならない。
 それにしても、カァーカァーとカラスは執拗に私の勉強を妨げようとするのである。

 その音は部屋の外から聞こえてくるのではない。既に窓の外は暗くなっていて、カラスなどとっくにねぐらに帰っていることだろう。カラスの鳴き声はまさにテープから聞こえてくるのである。
 変である。昼間の講義を聞いていたときには、カラスの声など少しも聞こえていなかったからである。教授の講義に熱心に耳を傾け、熱心に板書をノートに書き写していたときに、カラスなど決して鳴いていなかった。そうした場所で私はカセットテープを回していたはずである。それにもかかわらずテープからは止まずにカラスが私の邪魔をするのである。これでは気が散ってさっぱり勉強に身が入らない。一体どうしたことなのだろうか。

 そこで私は気づいたのである。人の耳というのはこんなにも便利な機能を持っているのだと言うことに改めて気づいたのである。カラスは確かに夏の昼下がりの開け放した教室の外で大声で鳴いていたのである。そしてその鳴き声は私のみならず、授業を受けている生徒全員の耳に届いていたのである。だからその鳴き声は私のテープレコーダーのマイクを通してその通りに録音されたのである。
 それならどうして授業中にカラスは鳴いていなかったのだろうか。それは私自身がその鳴き声をなんらかの方法で遮断していたということであろう。カラスの声は私の耳にも届いていた。しかしそれを雑音と感じた私はその音を聞こえないものとして遮断し、教授の声のみを選択して聞いていたということなのであろう。

 恐らくその方法は、音の方向の違いによる選択のような気がする。教授の声は前からなのに対しカラスの声は窓からで私の記憶によれば左側からの音になっていたと思う。私は無意識に左からの音を遮断し、正面からの音のみを「聞こえる音」として聞き取っていたのだろう。

 ところが録音は違う。マイクは一個しかついていなかったから、マイクへ届く音を聞き分けて選択的に録音するようなそんな洒落た機能はついていなかったから(もちろん現在だって、せいぜいがステレオで左右に分離する程度であろう)、マイクは忠実に届いた音を拾った。そして再生である。テープに記録された音はまさに忠実に再生する。モノラル録音の音はイヤホーンから真っ直ぐに耳へと音を出す。右からの音も左からの音も正面も後ろもなく、マイクから入力された音はそのまま一箇所のスピーカーからの音として再生されるのである。

 こうして方向による音の選択という機能を利用する機会を奪われた私の耳へは、教授の声とカラスの声とがまさに一体のものとして届くことになったのである。その中から教授の声だけをとりだすことなど不可能である。どのくらいの時間そのテープに挑戦し続けたか今となっては記憶にないけれど、テープの最後までカラスに付き合ったような気はしていない。なんたってイヤホーンから流れてくる講義に集中できないという現実が、テープからノートを起こすという学習の意欲を完膚なきまでに潰してしまったのであった。

 この経験はその後、私にテープによる学習の意欲を喪失させてしまったけれど、反面、耳(本当は脳と言うべきか)の持っている選択して音を聞き取るという能力に気づかせ、驚かせ、それが我が身にも備わっていることに感心もさせられたのであった。
 そして人はもしかしたら、「聞きたいことしか聞こえないのでないのだろうか」、「聞きたくないことは聞こえないのではないだろうか」、と思うきっかけにもなったのであった。

 情報過多とも言われる現代である。玉石混交、雑多な情報が見境なく私たちに届いている。それは否応なく自らの責任で取捨選択せざるを得ないことでもある。
 人は意識し、時に無意識に、「聞きたいこと」、「聞きたくないこと」を選別し、更にはそのことに「聞こえているのに聞こえないふりをすること」、「聞こえていないのに聞こえてるふりをすること」などを付け加えるような使い分けを知らぬ間にしているのかも知れない。



                                     2009.6.10   佐々木利夫



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聞くこと、聞こえること