いつの頃から日本人は同じ顔になってしまったのだろうかと、ふと思うことがある。
 大人になりかけの頃、洋画を見ていて「どうして外国人ってのは男も女もみんなおんなじ顔をしてるんだろう」と不思議に思ったことがあった。まだスターの名前を知るほど映画館に通っていたわけではないから、ストーリーなどもまるで覚えていないけれど、それでも出てくる俳優は男も女もみんな同じ顔をしていた。つまりはグレースケリーもシモールシニョレも、私とっては同じような顔に見えたということである。

 もちろん映画鑑賞もそれなり多くなり、それにつれてストーリーなどもそこそこ理解できるようになってくるとスターの顔も少しずつ区別できるようにはなってきた。それでも白人が黒人かの区別くらいはともかく、アメリカ人もフランス人もドイツ人もソ連人も、顔つきで区別することなどはこの歳になっても危ういくらいである。

 それでも、昔だって少なくとも東洋人と西洋人の区別くらいはついていたし、見慣れていたからなのかも知れないけれど、日本人のスターはそれぞれに個性のある顔として「同じ顔をしている日本人」というようなイメージを持ったことなど一回もなかったような気がしている。

 それがこの頃なんだか自信がなくなってきたのである。そう思い始めたのは日本人の俳優同士でも撮影の角度などで似たような表情が見られ、別人と見間違えるようなことが少し増えてきたなと感じるようになってきたのが最初であった。まあ昔と比べるなら、俳優やタレントが私たちの前に出てくる機会は映画のみならずテレビにまで及ぶのだし、一方私たちがテレビに費やす時間たるや私たちが小さかった頃に経験した映画と比較するなら、頻度と言い登場人物そのものの頭数と言い爆発的に増加してきているから、多少似ている人物が出てきたところで驚くことではないかも知れない。

 たかだか人の顔なんだし、輪郭があって目と眉が二つに鼻と口、そして両サイドに耳があって髪の毛が周囲に多少の変化を与えているだけのものだから、人の顔と言うのはそもそも別人であっても似ていることの方が当たり前なのかも知れない。むしろ多少たりとも人の顔つきがそれぞれに他人と異なると言うのは、もしかしたら人間という種を作った神様の横着と言うか手抜きによるものだというべきなのだろうか。

 それはともかくとして、双子やそっくりさんというのも居ることだから、似た顔が複数あっても不思議ではないのだが、基本的には人はそれぞれ別々の顔を持っていることの方が現実的な理解だと言っていいであろう。それがこの頃その辺りがどうにもあやふやになってきたような気がしてならない。

 最初は若い女性についてであった。若い女性の全員が同じというわけではないのだが、その多くが、それもタレントと呼ばれるテレビに出てくる女性たちなども含めて似たような顔つき、似たようなスタイルがあちこちで見かけるようになってきたからであった。
 一時期流行した「ガングロ」(もう死語になってしまっただろうか)と言うなら分からないではない。日焼けした顔が流行ってきたとして、それを真似て顔全体を茶色に塗りたくった化粧が日本中を席巻したが、それはひとつにはお面をかぶっているようなものだから、それが同じような顔に見えたところでその軽薄さを嘆くことはともかく、「やれやれ、今の若い女は・・・」と思うことくらいで今のような「似た顔」だと考えることはなかった。

 それが最近はどうだろうか。茶髪で長髪、前髪は眉を隠し、両サイドの髪は胸元まで垂らして軽くカールさせる。そんな姿がいつの間にか女性の定番スタイルになってしまっているのである。しかもそれはガングロのようにお面を被ったような特別な表現ではなく、一見まともに見えるような化粧の仕方にまで及んでいることに違和感を抱いたのである。同じような髪型、同じような顔つき、そして同じような話し方の若い女性がテレビにも、電車にも、行き交う道々にも溢れ出してきたのである。

 人にはそれぞれ個性がある、とする意見に私は必ずしも同意するわけではない。特別な才能を与えられた小数以外は、人は大体が似たり寄ったりである。「個性」なんぞと開き直ったところで、その個性がどんな形でどんなところで発揮できるのか、発揮されているのかを自問してみれば、ほとんどの人間が没個性の中に埋没してしまっていることぐらいそれぞれが身にしみて知っていることでもある。

 「・・・個性というものはどんな人にもあるものだという説は凡夫の耳に快い。人は聞きたくない説は聞かない。したがつて大勢が理解する説は、大勢が欲する説で、各人に個性があるという説のごときはその一つである」(山本夏彦、ダメの人、P136)。
 恐らくこうした「おんなじ顔」の背景には、格好いいと思われる誰かの真似をすると言う風潮があるのだろう。人真似が一概に悪いことだとは思わない。だがこうした同じようなスタイルの風潮には、あまりにも「自分」の存在が欠けているように思えてならない。

 そんな思いは始めは若い女性に対して気になっていたのだが、最近は男にまで及んできているように思えてきた。いつの間にか「イケメン」と言う語が広がってきて、男もまた同じような顔をし始めるようになってきた。髪形や化粧の仕方などではなく、私には顔そのものの区別すらつけづらくなってきている。

 まさに現代は見かける若者の全部が、男も女もまるで金太郎飴のようにおんなじ顔をしているのである。その人の顔は年輪が作るのだと私たちは教えられてきた。それぞれの経験や苦労や悲しみや喜びなどが、それぞれの人たちの顔を作り上げていくのだと、私たちはそう信じてきたはずである。だが金太郎飴の集団は、そうした各人に特有な年輪を刻む余地などまるでないかのように、個としての変化から遠ざかろうとしている。
 そうした均質化はそれを望んだ若者それぞれの意思によるものなのかも知れないけれど、果たしてそうした意思集団たる金太郎飴たちは、一体何を意図しているのだろうか。そしてどこへ行こうとしているのだろうか。

 それとももしかしたら同じ顔に見えるのは単なる錯覚であって、その背景には私自身に内在する認知能力の欠如?、それとも喪失?、があるのだろうか。それともそれとも・・・。



                                     2009.11.5    佐々木利夫


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