最近の新聞投書を読んで、なるほど日本語と言うのは難しいもんなんだなとつくづく感じてしまった。それは「こだわる」の意味なり使い方に対する「日本語を大切にしよう」と考えている者からの意見で、こんな内容であった。

 「こだわる」に私はこだわる

 文化庁・・・の記事(5日朝刊)を、興味を持って読んだ。・・・私が嫌悪の情を催しているのは、新聞雑誌の記事や広告にはんらんする「こだわる」という言葉である。・・・国語辞典によると「どうでもいい問題を必要以上に重大視する」など否定的に定義されている。ところが、広告では商品やサービスの質を誇大に表示するために用いられている。・・・10年、15年先の広辞苑には、「ささいな部分に至るまで等閑視しない、立派で称賛すべき態度」という定義が加わるかもしれない。せめてその時までは、私は「こだわる」ことは嫌いである。(’09.9.17、朝日新聞、岐阜市 男性71歳)


 私はこの投書を読んでどこか違和感が残ってしまったのである。投書者はこの「こだわる」が、本来の否定的な意味を離れて称賛として使われていることに憤慨しているのである。つまりそれは、本来とは反対の意味で使われているとの思いであり、そうした思いは「嫌悪」にまで届いている。

 この投書のタイトルは「『こだわる』に私はこだわる」である。ところで「こだわる」の中に「執着する」の意味が含まれていること自体は、投書者も、そして国語辞典も、更には投書者が間違ったとして憤慨する用法でも共通していると理解していいだろう。つまり投書者は「こだわる」を、「本来つまらないことに執着する時にこそ使うべきであるにもかかわらず、いいことに執着するように使われているのが気に食わない」のである。
 確かに最近のコマーシャルなどでは「こだわりの一品」であるとか、「私のこだわり」などと言った、執着することへの称賛の意味を込めて「こだわる」が使われる例が多い。

 ところで私はこのタイトルの意味するところが、投書者の意図とはまるで違っているのではないかと私には思えたのである。前提として投書者が「こだわる」の本来の意味を理解していることは認めていいだろう。つまり、投書者は「こだわる」が「つまらないことに執着する」ことだときちんと理解しているということである。
 にもかかわらず、そうした意味の「こだわる」に「私はこだわる」と投書者は続けているのである。これはまさに「つまらないこと執着することに私はまともに向き合っていく」と言ってるのと同じではないだろうか。彼が言いたかったのは「俗用されている本来の使い方でない用法に私はこれからもこだわりたくない」、ではなかったのだろうか。つまり、「こだわる」と言う肯定的な表現そのものが投書者の意図とは違ってしまっているのではないだろうか。

 「本質を忘れ目先にこだわる」との言い方、「皆さんに喜んでもらえるよう味にこだわる」の言い方、「こだわる」には二つの違った使い方がある。正しいのは前者であって後者は誤用だと投稿者は辞書の定義をひいて述べている。まさに「どうでもいいことにこだわる」が正しい使い方なのだから、「そうしたこだわりってのは間違いだよな」と付け加えてもいいような発言に対応するものである。つまり、「こだわることの対象」は「どうでもいいこと」なのだから、投稿のタイトルの意味は「どうでもいいことにこだわる」ことに「私はこだわる」と言う意味になってしまっているのである。なんたってこの投書の結論は「私は『こだわる』ことは嫌いである」になっているのだから。

 新聞にはそれをタイトルと呼ぶか見出しと呼ぶかをきちんと理解しているわけではないけれど、必ずと言っていいほど表題がついている。それは新しい記事に切り替わったことを示すマークであり、タイトルに続く記事の内容の概要でもある。そうしたタイトルを誰がつけるのかを私は知らない。投書の場合などは投書者自身がつけるのだと思うけれど、編集者がそれをふさわしくないとか、長すぎるとか、もっと別の表現の方がいいなどと感じたとき、更には表題のない投書だったような場合などには新聞社の責任でつける場合もあるだろう。だからこの投書のタイトルが投書者自身の命名であることの保証はない。だとすれば、私のこうした感想は投書者本人へではなく新聞社へ向けられるべきものなのかも知れない。

 それはそうなんだけれど、どちらにしてもタイトルと記事の内容とに齟齬があることは、このタイトルをつけた者が記事の内容にもかかわらず、「こだわる」を二つ並べたことときに前者と後者とで違った使い方してしまったことにあると思うのである。つまり前者は本来の意味の「こだわる」なのに対し、後者は世間に流布している単に執着すると言う用法のみに流された言葉として理解してしまっているということではないだろうか。

 投稿者が引用している文化庁の記事は私も読んだ。「こだわる」が文化庁の発表した10問に取り上げられていたわけではないが、采配を「振る」のか「振るう」のか、手をこまねく、破天荒、恩の字、敷居が高いの意味など、日本語における多くの誤解や誤用の例が示されていた記事には興味があった。
 中には「時を分かたず」のように、私自身誤って理解しているものもあった。私はこれまでにこの語を使う場面が恐らくなかったと思うので、これまで発表したエッセイに出てくることはなかったと思うけれど、その意味を「すぐに・直ちに」だと理解していたからである。ところが正しい用法は「いつも」なのだそうである。「間を置かずに」であるとか「間一髪」のような意味での別な表現を捜していたとしたら、私は間違いなく「時を分かたず」を使ったような気がしている。

 「日本語は難しい」などとしたり顔で言うことなどはすまい。それでも勉強不足だったり、言葉そのものが誤解されやすい表情を持っていたり、語呂が悪いために別な言い方に変節していったり、時の流れの中で意味が取り違えられたりする日本語はあちこちにある。消えていく日本語、造語される日本語、外来語の浸透なども含めて日本語はこれからも止まることなく変化していくことだろう。
 それは言葉そのものが生きていることからくる当然の経過であり結果なのかも知れない。それでもいくつかの日本語の中にそうした変化の楽しみ見つけられることは、そうした楽しみを楽しめる自分自身の発見と言うことでもあろうか。たとえそれがへそ曲がりじみた楽しみ方であったとしても・・・。



                                     2009.9.25    佐々木利夫


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