子供のやることや考えていることの全部が純粋無垢だとは思わないけれど、それでも例えば幼稚園児や小学生の徒競走など、ひたすらな姿を見ていると、大人がいつの間にか失ってしまっているひたむきさにふと気づかされることがある。

 童話作家石井桃子は昨年(2008年)4月2日、101歳で亡くなった。彼女は「のんちゃん雲に乗る」をはじめ多くの作品の創作や翻訳を手がけたが、私自身はそんなに彼女の作品に直接触れた記憶はない。それでも彼女が語ったとされるこんな言葉は、いつの間にか私自身の思いと重なってきている。

   子どもたちよ
 子ども時代を しっかりと
   たのしんでください
   おとなになってから
   老人になってから
 あなたを支えてくれるのは

 子ども時代の「あなた」です


 この言葉は童話の中の文章とは思えないから、恐らくどこかの講演かエッセイか、それとも詩などの形で発せられたものだろう。私自身、直接この言葉を彼女の作品から聞いたり読んだりした記憶がまるでないところを見ると、恐らく誰かが引用した文章からの影響によるものだろう

 「生涯現役」は比較的元気な老人の好んで使う言葉だけれど、現役としての今の仕事なり趣味などを貫き通す根っこについて、私はその人の若いときの経験が重大な要素になっているのではないかと思っている。それは「若いときの経験が重大な要素」になると言う思いをずっとずっと超えて、もしかしたら私たちは大人になり年老いていく過程の中で自らの若いときの経験を超えることなどできないのではないかとの思いにまで広がっているのである。
 確かに人は日々成長していくことだろう。経験から学び、その上に努力を重ね、更に磨きをかけていく過程は、歳を取ったからと言ってそんなに衰えるものではないだろうし、そうした成長する過程そのものを否定しようとも思わない。

 しかし、そうした努力する過程は、あくまでも基礎となる母体があって始めて成立するものなのではないだろうかと思っているのである。そしてその母体を作り上げるために必要な土壌は、子供時代を含めた比較的短い期間にその人専用に用意された中からしか選択できないのではないだろうかと思っているのである。

 もちろんいわゆる「大器晩成」の語を知らないではないけれど、土を耕し、種を植え、水や肥料をやって育てていくその人の人生としての過程は、「物事を始めるのに遅過ぎることなどない」と当たり前に言われているような常識とは、どこか違っているのではないかと思えてならないのである。

 大人になってから収穫するために耕し種まきする年齢、石井桃子はそれを「子ども時代」に求めたけれど、私はもう少し上の二十四・五歳まで大丈夫なのではないかと思っている。
 もちろんそれは単なる私の経験から言っているだけことで、もしかしたらそうした年齢以後に私は新しいことに挑戦する努力をしなくなったことを示しているだけのことなのかも知れない。

 二十四・五歳を子供時代とは言わないだろうけれど、それでも石井桃子の「子ども時代をしっかり楽しんでください」のメッセージは、しみじみとした実感を伴って私に迫ってくる。
 様々な経験を経て今の私は存在しているのだし、そうした経験の中には大人になってから積み重ねられたものもたくさん含まれている。経験の質や量から判断するなら、仕上がり具合と言い理解度と言い、更には熟成の度合いなども含めるならば、大人になってから蓄えられた知識の方が子供の頃よりもずっとずっと寄与していることは疑いのない事実である。

 だが翻って、今の私を作り上げてきた根っこのことを考えてみると、その種はやっぱり子どもの頃、もしくは遅くとも二十四・五歳くらいまでに経験した、または興味を持ったことどもに限定されてしまっているのではないかと思えるのである。
 「三つ子の魂百まで」などとカビの生えた諺を持ち出すつもりはないけれど、自分を作り上げるための土壌はやっぱり「若い頃の自らの経験」に裏打ちされているのではないかと思えるのである。

 恐らく子どもの能力は、なんでもそしてどんなものでも吸収できるスポンジみたいなもので作られているのではないだろうか。そして人はそのスポンジに吸収された栄養を、大人になり老いていく生涯をかけながらゆっくりと味わい続けていくのではないだろうか。老いるとはそういうことなのではないだろうか。
 たとえ子どもの頃に吸収した栄養が中途半端で、未完成で、思いつきで、時に冗談みたいな遊びで、更には山のような無駄で構成されていようともである・・・。



                                     2009.1.6    佐々木利夫


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財産としての子供時代