地下鉄大通り駅は札幌の地下鉄三路線(南北線、東西線、東豊線)が交差し、場所的にも市の中心地であるところから地下鉄としては恐らく乗降客の一番多い駅であろう。それぞれがそれぞれの目的を持ってここにいることは、乗り換えにしろ出口へ急ぐにしろ、その歩き振りからも察することができる。
 こんな状況は地下鉄に限らず、混雑の多少を別にすれば駅でもバス停でも見ることができるから、そんなに特別な感慨を抱くことではないかも知れない。

 ただふとこうした混雑の中に紛れている一人ひとりについて思いを馳せてみると、「こうした人たち全員にそれぞれ異なった家庭がある」ことにどこか暖かいものを感じてしまう。もちろんそれぞれの人たち全員に、夢ふくらむ行き先が待っているとは限らないだろうけれど・・・。
 とは言え、地下鉄にしろ電車にしろバスにしろ、先を急ぐ人たちの全員がそれぞれに異なった行き先を持っていることだけは間違いがない。

 かつて東京で研修を受けたとき、休日を使って山手線一周を目的にして駅界隈を歩いたこともないではないけれど、今見ている駅の雑踏に溢れている人たちは、そのほとんどがどこかへ向かうことのために利用していることだろう。
 互いがまるで無関心でありながら、「どこかへ向かう」との共通した意思を持っている集団、そんなことに私は暖かさもさることながら、どこか切ないまでの人間の営みみたいなものを感じるのである。ここにあるのは無関心の寄せ集めである混雑した電車のひとときや乗換駅での雑踏ではあるけれど、こうした無秩序とも思える集団としてのイメージには、こうした思い以外にもどこか怖さにつながるものも感じられる。それは人間の営みそのものに共通する、意思の持つエネルギーででもあろうか。

 そんな中に混じっている私も一人である。群衆の中の孤独などと文学的な表現をするつもりはないけれど、私も同じように自宅か、事務所か、顧問先か、それとも友人との飲み会の会場へか、それなりの一つの目的を持った私人として群集に紛れているのであり、あてどなくさまよっているわけではない。

 それでもふと「私は一人である」ことを痛烈に感じる瞬間がある。そんなに人恋しいわけではないと思っているのだが、雑踏の人ごみの中に一人の見知った顔もないことは、当然といえば当然のことではあるものの、どこかに「人は一人なのだ」というメッセージが強く込められているような気がする。

 人が群衆の中に孤独を感じるのは、無意識にせよ「群れ」の中に安住があることを予感するからなのだろうか。それとも孤独の中にこそ自らを沈潜させ生きていることを感じさせる意味の存在を直感してしまうからなのだろうか。

 2月になっても午後6時は既に闇の中である。駅や地下鉄の雑踏に紛れることは滅多になく歩いて帰ることの多い日々である。道々にはいくつものマンションがあり、窓に夕べの明かりが灯っている。窓の数だけ家庭があり、家庭の数だけそれぞれの人の営みがある・・・。窓に人影は見えないけれど、見知らぬ人々、そしてこれからも見ることも話を交わすこともないであろうその部屋部屋の住人の存在にふと思いを馳せることがある。



                                   2009.2.7    佐々木利夫


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混雑の中のひとり