最近放送の時間帯が変わったせいでご無沙汰になっているが、NHKテレビ「ことばおじさん」は今でも続いている。そうした事実は変化する日本語、どこかおかしいと感じるような言葉遣いなどに係わる話題が事欠かず世の中に流通していることの表れだと言っていいのかも知れない。
 これから書こうとすることが、この番組の中で既に取り上げられていたかどうかは明らかではないけれど、気になる言葉遣いがこの頃聞かれるようになってきた。もちろんそれは私だけが感じることかも知れないから、なんら客観性のない独断なのかも知れない。ただそうは言っても、一度気になりだすとどうもそこから抜け出せなくなるのも私の悪い癖でもある。

 気になってきたのはこんな言葉である。「・・・くれたらいいかなと思います

 どちらかと言うと若い人から聞くことが多いような気がしてるけれど、最近は中年にまでこうした言い方が広がってきているような気がする。
 そしてこの「・・・くれたら」の前には、多くの場合社会的にと言うか世間的に正しいと思われるような行為がつけられているようだ。例えば有機野菜を作っている農家やエコに役立つ道具の考案者などである。その彼らはこんな風に言う。「これは私たちが一生懸命に努力した結果によるものです。この商品を皆さんがたくさん利用してくれたらいいかなと思います・・・」。このような言い方はこうした例だけではない。「使ってもらえたら・・・」、「食べてもらえたら・・・」、「認めてくれたら・・・」などなど、際限がないほどにも広がってきている。

 どこが変なのかと疑問に思う人がいるかも知れない。もしそうだとするなら、この表現に関する私の感触はそうした人たちの意識と少しずれているのだろう。だがこの言葉はどこか「思います」と言う、希望と言うか願望を示す結論の前提としての「いいかなと」とはどうしても結びつかないような気がしてならないのである。
 それはこの「いいかなと思います」に付着している「かなと」の語がどうしても命令形、つまり「そのように思え・・・」と言うような意味、もしくは「そうするのが当然」というような、単なる願望以上の押し付けを示すような意味を言外に持っているような気がしてならないからである。

 こうした言葉遣いの意味というか発言者の目的は、本来的には「そうして欲しい」という願望にあるだと思う。つまり「食べてくれたら嬉しい」であり、「ぜひ使ってほしい」という意味なのだと思うのである。それは決して「使え・・・」とか「認めるのが当然・・・」と言ったような意味を持つものではないはずである。

 それで改めてこうした表現を振り返ってみることにした。言葉づらで見る限り、「・・・いいかなと思います」の中に強制的な意味を持つ遣い方は含まれていない。むしろ「・・・思います」と結んでいるのだから、一種の願望の意味が込められているに過ぎないと言ってもいいだろう。にもかかわらずどこかで命令形のような意味を感じるてしまうのはどうしてなのだろうか。

 そこで気づいたことがある。この言葉、つまり「・・・いいかな」の前提となる努力なり行動の対象がどこかで主客転倒してしまってるのではないかということであった。
 例えば「・・・優勝するために努力していけたらいいかなと思います」だとか、「これからも品種改良を続けていけたらいいかなと思います」などの表現と、前述しているような使い方「・・・利用してくれたらいいなかと思います」などとは、アクションする対象が違っているということである。

 前者は自分個人であるとか自分を含めたグループなどが、自分たちのために自分たち自らが努力していきたいと言っているのに対して、後者の言い方は自分ではなく自分以外の顧客や消費者や観客などを対象にしていると言うことである。つまり、「・・・いいかな」に係る前提が「自分」なのか「あなた」なのかがいつの間にか転換された形で使われている、もしくは曖昧にしたままで使われているということである。

 もちろん、例えば選挙などで「・・・当選した方にはぜひ、〇〇を実現していただけるといいかなと思います」のような使い方もあるように、全面的に他者に対する要望を表す場合もある。だが私が気になっている使い方は、「あなたのためにあなたが・・・」の意味が隠されているように思えるのである。

 そこのところに私はどこか違和感が残ってしまったのではないかと思ったのである。本来、「そうして欲しい」と思うのは自らの願望であるはずなのに、それを自らの努力から他者の努力へと転化させてしまい、「あなたのために言っているのです。そうすることがあなたにとって良いことなのです」のような意味を秘めて使われてしまっているのである。

 使い古されている言葉だけど、語呂合わせの妙で私の好きな言葉遣いの中に「小さな親切大きなお世話」というのがある。まさに「・・・いいかなと思います」の使い方の中に、いつの間にか「自分がそうした努力を続けていければいいかなと思う」という位置関係が、「あなたがそうしてくれればいいかなと思う。そしてそのことが私たちの利益につながる」のような努力を他者へ押し付けるみたいな表現へとすりかえられてしまっているのではないかと思えてならないのである。
 そうしてそうした発想そのものが、言われた方(つまり私など)についつい、「どう思おうと私の勝手だろう」、「そんなこと、あんたなんかに言われたくない」、「余計なお世話だよ」と言うような感情を招いてしまったのではないかと思うのである。

 昨日(7.22)は皆既日食で日本中が湧いた。ほとんどの地域が悪天候に見舞われ、日本で最長の皆既日食が見られるとの鹿児島県悪石島も風雨に見舞われた。そのことをどうのこうの言いたいのではないけれど、ここでも旅行者の一人がこんなことを言っていた。「自分が宇宙とつながつているという気持ちを持って(日食を)見てくれればいいかなと思います」。まさに余計なお世話である。どんな気持ちで見ようとそれは私自身が決めることだからである。

 もし「あなたのそうした選択や努力や気持ちが私にとって嬉しい」ことを言いたいのであれば、「・・・いいかなと思います」ではなく、「認めてくれたら嬉しい、買ってくれたら私たちの努力が報われます」などのような素直な表現を使えばいいのではないかと思ってしまうからである。



                                     2009.7.23    佐々木利夫


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・・・いいかなと思います