言語について特に研究しているわけではないから、世界の言語についてそうだと言い切れるほどの自信はないけれど、日本語には漢字・片かな・平かななどの混じる表現が一般的で、こうした使い方は他の言語にはないような気がしている。そしてこうした使い方の特徴が日本語を豊かなものにしているような気もしている。しかもこれに加えてそうした表記の是非はともかくとして、例えば英語をローマ字表記でそのまま日本語の中に併記したとしても、多少の違和感は別にしてもそれなり通用するような柔軟性さえ持っている。

 その上、日本人は物事を柔らかく表現することが好きなようだ。

 例えば「貧困」である。貧困と言う言葉のなかには、どこか「お金が足りなくて好きなものが買えない」程度の意味しか与えられていないような気がする。本来、貧困と言う意味の中には、例えば飢餓とか盗みとかゴミ箱を漁って捨てられている半分腐りかけたものでも食う・・・、そんなことまで含まれているはずである。世界中の難民の多くが現にそうした環境に置かれ、現に餓死までしていることを私たちは毎日のニュースで知ることができるからである。
 それにもかかわらず私たちは、貧困を「お金が足りない」程度の軽いものとしての理解しかしていない。つまりこうした日本語には「臭い」が伴っていないのである。日本語の貧困には人が餓死することの意味などまるで含まれていないのである。

 例えば「リストカット」もそうである。何が原因なのか、どうしてそんな風になるのか、何を求めているのか、私の持っている程度の心理学の知識ではまるで理解には届かないけれど、リストカットとは自分の手首をカッターなどで傷つけることを意味する。そのことで死ぬ、つまり自殺完遂の企図までには必ずしも及んでいないようだし、痛みを感じることが逆に自分の存在や生きている実感につながっているのかも知れないけれど、現象としては手首から血を流す自傷行為である。何度もその行為が繰り返された手首は傷だらけになっていて、しかもその手首から今まさに血が滴り落ちているのである。
 にもかかわらず、リストカットという言葉は軽い。何の苦労も知らない若い女性が、気まぐれに一人で遊んでいるかのような雰囲気さえ持たされているように感じられる。

 5月10日の朝日新聞は、「家畜をさばく」と題して長崎県立島原農業高校の授業風景を伝えていた。言葉と言う存在そのものが現実から遠くなるに従って実感からも遠のいていく宿命を持っているからなのかも知れないけれど、「食べる」こともまた命とは隔絶された意味を与えられている。
 血を抜き、羽をむしったニワトリが目の前にあり、生徒たちが解剖刀で立ち向かう。恐らくそれは恐怖そのものではなかっただろうか。私たちがハンバーグを食べ、すき焼きや焼肉に舌鼓を打つというのは、「屠殺(とさつ)」という行為抜きにしてはありえないにもかかわらず、そこからは血の臭いはおろか「死」の事実さえもが漂ってくることはない。

 恐らくそうした言葉と現実の乖離とは、そこに両者を結びつけるための思考過程の切断があるからなのだろう。見たくないものは見るための努力を自らに課さない限り見えてこないのである。例えその見たくないとの思いは本人だけではなく例えば親だとか先生、更には社会人たる大人にまで蔓延しようとしている。真綿でくるんだ事実は外側からだけでは見えてこないのである。見えないものは存在しないのだと人はいつか思いこむようになってしまうのである。

 臭いのしてこない抽象化された言葉は、いつしか事実からの実感さえも遠ざけてしまう。そうした意識は、例えば戦争であるとか平和と言った意味さえも抽象化し、バーチャル化してしまう。戦争で人が死ぬのは、遠い無関係なまるでゲームの中の出来事であり、個人という一つの命が血を流して消えていく事実からの隔絶を示しているかのようである。
 ニワトリを自らがさばくことだけが命と向き合う手段ではないとは思うけれど、現実と共感できる場があってこその自分なのではないだろうか。そうした意味で、現代は余りにも言葉に重さがなくなっているような気がしてならない。

 今更言葉に「言霊(ことだま)」の伝説を吹き込もうとは思わないけれど、どこか「汚いこと」であるとか、「残酷なこと」、そして「恐ろしいこと」、「世の中にあってはならないこと」などは、最初から私たちの身の回りには存在しないかのように大人が振る舞い、そうした事実から子供の目をそむけさせているのだとしたら、大人は一番大切な生きることの伝承を自ら放棄していることになる。



                                     2009.5.27    佐々木利夫


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