新聞には記者の取材による記事のみならず多数の提言や投稿も載っているから、そんな中の一部をとりあげていちいち気にしていたらストレスが溜まる一方になるかも知れない。そうは言っても気になることは気になるのだし、それがまたこうしたエッセイのネタにもなるのだから、まあ、それはそれで良しとしようか。
 気になったのは半月ほど前に掲載された日本がアフリカソマリア沖の海賊対策に自衛隊を派遣すると決めたことに関する大学院教授の寄稿記事で、その論述はこんな風に締めくくられていた。

 「・・・海賊問題で日本が自衛隊を出さないのは苦しいし、憲法9条に沿って物事を進めるのも楽ではない。それでも、軍事によらない努力をした方が長期的には良いと思います。軍事を使うことに伴う問題も冷静に考える必要があります」(朝日新聞、’09.3.8、「軍事に頼らぬ協力の道探れ」、明治大学法科大学院教授)。

 私はこうした意見に反対したいというのではない。ただ、彼の言う「・・・冷静に考える必要があります」と言う言葉は、寄稿における自らの意見表明の締めくくりにはなっていないのではないか、いやいや締めくくりにしてしまってはいけないのではないかと思ったのである。むしろこうした言葉は結論にではなく、ここから始まるものとして掲げるべき言葉ではないかと思えて仕方がなかったのである。
 こんな言葉で投稿を締めくくったって、それは意見ではなく、単にくい散らかした問題提起のばら撒きにしか過ぎないと私には思えてならない。

 こうした論述の展開の仕方に対する疑念は、筆者が述べるソマリア沖の海賊問題だけに限るものではない。こんな風に「・・・必要があります」で終わらせることもまた一つの意見なり結論になるのだとするなら、世界のどんな問題にも、はたまた隣近所の紛争にも、問題提起のあらゆる場面にこうした表現が通用されてしまい、結果的に意見を言わないことと同じになってしまうように思えてならないからである。
 何かを提言したいと望み、その手段として「協力の道を探るべきです」と論者が考えたのなら、最初にその言葉を掲げ次いで「そのためには・・・」と続けて、自らが効果があると信じる提言を具体的に展開してゆくのが意思表示の手段としてのやり方なのではないだろうかと思うのである。

 アフガニスタンのテロに対してだって「軍事力で対峙するのではなく・・・」と続けたり、死刑や無期懲役の制度についても「単に刑罰の課すだけではなく・・・」と続け、そしてそれに「・・・冷静に考える必要があります」を付加して結びにしてしまうとしたら、それを果たして意見や提言だと言ってしまっていいのだろうか。

 様々な意見を交換したり提示したりすることは必要である。ある意見に右し、ある意見には左する。賛成し反対し、更には別の道を模索する、そうしたことを通じて人は社会のルールを作ってきたのではなかったのだろうか。

 ソマリア沖の海賊行為に対してだって、「憲法を改正し日本に軍隊を作って対処せよ」の意見があってもいいのだし、「自衛隊の派遣なんぞしないで、国連なり海賊の被害を受けている国々に対する資金援助だけに留めるべきだ」とする意見、「被害を受けても無抵抗のまま何もするな」だって一つの意見になる得るだろう。場合によっては「ソマリア沖を通らないようにしよう。そのことで石油や物資が入ってこなくなったり、コスト増が価格に反映したとしても、我々はそのことに我慢すべきだ」だってそれなりの意見だと思う。

 ただ私が思うのは、どんな場合も何かを決めなければ先へは進めないと思うのである。考えることも必要だとは思うけれど、考えているだけでは今の状態を解決できないこともまた事実として認めなければならないだろう。だから、「軍事に頼らぬ協力の道探れ」として「冷静に考える必要があります」とする意見があってもいいけれど、そうした冷静に考えている間に発生する現実の問題に対してどう対処すればいいかについても同時に提言するのでなければ、それは片手落ちの謗りを免れないのではないだろうか。

 繰り返しになるけれど私は「冷静に考える」ことを否定したいのではない。だが発生しているのはまさに今の危機である。それも日本対ソマリア政府と言うような国家間の問題ではなく、海賊行為というまさに犯罪集団による犯罪行為に対処しようとするものである。そうした意味で自衛隊と海上保安庁とが共同してこうした海賊行為に対処するとした今回の政府の措置、そして同時に国会で具体的な海賊行為に対処するための立法について審議するとした政府方針を妥当なものとして認めたいと思うのである。

 今回のこうした派遣が最良であるかどうかは議論があるところだろう。ある人は「もっと徹底した対処をすべきだ」と言うかも知れないし、またある人は「明確に憲法に違反した行為だ」と評価するかも知れない。結果がどうなるにしろ、国民が選んだ国会による立法として議論と解決がなされることだろうし、そのことがいわゆる多数決の結果によるものであっても国民の意思になるのだと思うのである。

 どんな方法を採用するかは結局国会での議論に委ねるしかないだろうけれど、国際社会との協力の道を探っていくべきだとか、和平への話し合いを進めるべきだとの抽象的な意見のみに委ねることなく、今の危機にどう対処していくかについても同時平行で具体的な行動を示すべき時が来ているのではないかと思うのである。



                                     2009.3.25    佐々木利夫


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