なんでもかんでも面倒くさがる風潮が、大人にも子どもにも蔓延してきているような気がしてならない。かく言う私だって、これまで勤勉な人生だけを続けてきたなどとは口が裂けても言える立場にないことくらい先刻承知である。そうした状況は私自身に体臭のようにしみついているようにも感じられるから、単に老境に入ったことによる怠け癖と言うだけで済ますのは言い訳になるかも知れない。

 それはそうなんだけれど、今活動している人たちの多くは私と比べるなら若い人になるのだから、もう少し生きることや仕事や趣味でも、なんでもいいけれど物事にきちんと真剣に向き合って欲しいと思うようになってきている。

 まあ、人が何かに面倒くさくなるのはそんなに変なことではないかも知れない。「楽は苦の種、苦は楽の種」などと昔の人はもっともらしいことを言っていたけれど、「先憂後楽」にしろ「若いうちの苦労は買ってでもやれ」みたいな話にしろ、つまるところは人は「苦労なしで楽ができればそれに越したことはない」とするような気持ちがあること、そしていずれ訪れるであろう「楽」への期待が今の苦労を忍ぶための気持ちの整理の背景に隠れていることくらい誰にだって分かることでもある。

 うろ覚えの落語だけれど、毎日仕事もしないでぐうたらに過ごしている若者にたいするこんな説教話がある。「人は一生懸命勉強しなきゃならないんだよ」、「どうして一生懸命勉強しなきゃいけないんだ」、「勉強するといい会社に入れるからだよ」、「いい会社に入ったらどうなるんだ」、「給料を一杯貰えるようになる」、「給料を一杯貰えるとどうなるの」、「楽して寝て暮らせるようになる」、「なあんだ、それなら今でもやってる」みたいな話である。だから果報は寝て待てみたいな心境は古来から我々の内心に染み付いていたのかも知れない。

 ただそうした想いが最近は何か行動を起こす前の、一番最初の気持ちの中に出てきてしまうようで、そのことに私はどこか納得できないものを感じてしまうのである。それは本当に苦労を知らないまま楽だけを経験することで、人はきちんと自分の人生を生きていけるのだろうかとの思いにつながってしまうからでもある。

 つい最近、NHKのテレビで「女と男」と題する三回シリーズの特集番組を見た。三回目は「性としての男」が生物学的に消滅していくことを内容としていた。それは性差として男を決める遺伝子としての「X染色体」が、胎盤を持つことで発展してきた哺乳類としての人類にとって必然的に消滅していくことを知らせる物語であり、同時に夫婦共同を基本とした人類の進化の過程そのものが男としての精子の活動を不活発にしていくことの物語でもあった。しかも男の消滅は「種」としての人類の消滅でもあることを示していた。つまり人類は処女生殖の道をも閉ざしてしまっていたのである。

 その番組を見ながら、番組とは無関係なのだが、最近の若者の結婚への意欲のなさであるとか、繁華街を闊歩して流行に身をやつすことだけに汲々としている姿などを見るたびに、「意欲のなさ」はまさに人類の将来の喪失が目前に迫っていることを示しているのではないかとの思いにまでつながっていく。

 例えば最近のフリターやネットカフェ難民である。確かに今現在の不況の下で路頭に迷うような切羽詰った状況が分からないではない。非正規労働者の苦しさが社会問題していることも理解できないではない。
 それでも、これは私の偏見かも知れないがそうなった責任の一端は非正規労働者たる道を選んだ本人自身にもあるのではないだろうかとの思いも捨てられないでいる。
 親任せで大学を出てきちんとした就職につくことを自ら放棄し、青春を標榜して海外を放浪するとやら、世界の平和のためにボランティア活動をするとやら、自分探しのために拘束されるような職業にはつかないことなどを選択したのは、まさに自らの意思によるものではなかったのかとの思いでもある。その間正業についた者たちは仕事に追われ自らの自由時間も満足に取ることのできないまま、組織人間として拘束されて続けてきたのである。そうした身動きできないようなしがらみの中に身を置くことが正規労働者の辿ってきた道であったのではないだろうか。

 現在の非正規労働者の全部がそうだとは言わないけれど、彼等の中には社会のしがらみにまとわりつかれたいわゆる正規社員として雇用された人たちを横目で眺めながら、若さに任せた自由な職業選択の渡り歩きを自らに許してきたのではないのか。だから今ある結果は、その者の自己責任の結果ではなかったのか。
 非正規の今の苦しさを嘆くその者にだって、高校や大学を出た時には正規労働者としての道も開かれていたはずである。そうした道への選択を、拘束だの、自分探しだなどの理屈をつけて拒否し、フリーな労働への道へ踏み出したのは自らではなかったのか。だとすればそうしたつけが数年、数十年を経て回ってきたところでそれを嘆く資格などその者には始めからないのではないかと私には思えてならないのである。

 例えばパラサイトもそうである。寄生する生活は本人にとって余計な生活費などをかけないですむことや、それで浮いた分をより楽しい生活に当てるなどのメリット、更には一人暮らしに必要な家事一切を親に任せられるなどの余禄もある。だがこうした寄生はあくまでも親と子互いの甘えにしか過ぎない。甘やかされ続けた子どもたちにだって時の流れは容赦なく押し寄せ、やがて若者になり、大人になり、老いてゆく。それは依存してきた親の喪失と同義でもある。面倒くさいからやらないことと甘えとは同義である。そんな子どもが将来どうなっていくかは、あまりにもはっきりと見えているのではないだろうか。

 例えば引きこもりなども甘えを許すような社会や親のへの依存のあらわれであることも多いように私には思える。晩婚化などと名ずけてしまうともっともらしく聞こえるけれど、専業主婦だって決して夫へのパラサイトではなかったはずである。それを「女の自立」みたいな看板を掲げて性差の中にだってきちんとした役割分担があることを無視し、見かけの平等意識に自らを押し込めようとした結果が今の姿なのではないだろうか。

 最近の不況や政治の閉塞感の中で、特に若者は諦めの中に自分を押し込めようとしているような気がする。そしてそうした自分の居場所を、いかにも自分の意思による選択結果によるものであるかのように「めんどうくさいから」との冠詞をつけながら正当化するようになってきている。

 だから「めんどうくさい」には、どこかに自傷や自殺みたいな意図が心ならず含まれているような気がしてならない。若者の特権の中には、(場合によってはなりふりかまわず)「障害を打ち破る」こともきっとあったはずである。そうした「打ち破ること」が、人が人として存在し続けていくためのキーワードだったのではないだろうか。

 だからと言って私は現在の急迫した非正規労働者の存在に対して、それは自業自得なのだから放置しておいていいのではないかと思っているのではない。動機や経過がどうであろうと現在の状態を少しでも救済していこうとする動きを認めるのにやぶさかではない。

 ただこうした現在の途方に暮れるような状況に嘆くばかりではなく、そこから人は学ぶべきではないだろうかと思っているのである。「めんどうくさい」の前に「少し我慢すること」だとか、「もう少し努力してみること」の意味を、非正規と呼ばれる人々も、親掛かりで何の苦労もなく生活していけるパラサイトも、小学生も中学生も高校大学などの若者たちも、そしてそういう人たちを囲んでいる「努力してきたと自負している人たち」も含めて、もう一度自分そして自分とかかわりのある他者との接触の仕方について考え直してみる必要があるのではないかと思っているのである。なんたって、そのための教科書が目の前に開かれているのだから・・・。



                                     2009.1.23    佐々木利夫


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