「みんな仲良く」なんてことを言われると、それを否定することなど頭からできないように感じてしまうけれど、でも心のどこかで「ちょっと待てよ」みたいな気持ちが残ることがある。そうした気持ちを抱くことこそが「へそ曲がりのへそ曲がりたる所以だ」と言われてしまえばそれまでのことなのかも知れないけれど・・・。

 私は「嫌いであること」の存在を否定してはいけないと思っているのである。ある人が「私はどんな人も大好きです。嫌いな人なんて一人もいません」なんてことを言ったとしたら、その人はもしかしたら神様になれるかも知れないけれど人間にはなれないのではないかとさえ思ってしまう。もし人が人を好きになることを事実として認めるのだとしたら、それと同じレベルで「人が嫌い」が存在していることもまた当然のことではないかと思うからである。

 ただ、大切なことは「嫌い」な対象を無理やり「好き」になることや排斥してしまうのではなく、嫌いのままでいいから、その存在なり事実なりを自分の中にきちんと認めることだと思うのである。
 確かに「嫌い」は人の持つ負の側面かも知れない。「嫌い」に連なる系譜には、例えば憎悪や争いや怨嗟などが含まれているかも知れない。だがそれが人だと思うのである。そうした負を持つことの中に人が人として存在していることの意味があるのではないかと思うのである。

 自分と異なる他者の存在をきちんと認めることはとても難しいことなのかも知れない。こうしたテーマに触れるたびに、私は18世紀フランスの思想家ヴオルテールが言ったとされるこんな言葉をなぜか思い出す。

  「貴方のいうことにはひと言も賛成できるところはないが、貴方にそれをいう権利があることは、死を賭しても私は守るつもりです」(出典不明、かつ誰かが引用した本からの孫引きだと思います)

 人は常に他人を評価し、同時に評価されながら生きていかなければならない。そしてその評価は多くの場合「好き」か「嫌い」か、そして「無関心」かのいずれかに分類される。そうした「好き」以外の存在も認めることで、人は自らを確立していくことができるのではないだろうか。

 例えば宗教。恐らく多くの人、いやいや全ての人と言い換えていいかも知れないが、人はその人生において愛する人の死や我が身に訪れる耐え難い苦痛や屈辱や混乱などをいくつも味わうことになるだろう。そうした数多の災厄に対して、人はきっと天も地も、神も仏も、もちろん寄り添ってくれる他者すらも存在しないことを絶望の中に嘆くことだろう。そうした救いなき嘆きの中から宗教は生まれてきたのではないかとふと私は思うことがある。
 生まれてから死ぬまで、平穏で、平和で、病もなく、望むことはなんでも叶うような人生を送ってきた者にとっては、神などまるで不要の存在だからである。宗教もまた裏切りや挫折や不幸から成り立っている、いやいや、人生そのものがそうした耐え難い不条理の存在を認めることの中に構成されていると言っていいのかも知れない。

 だがそれにもかかわらず、現代の宗教にはそうした不条理を受け止める力がなくなっているようにも感じる。宗教といえども経済活動に取り込まれて採算であるとか保身、更には安定や繁栄と言ったシステムから逃れられなくなっているのだろうか。
 現在の18万人とも言われる非正規労働者が解雇や契約切れで巷に放り出されているいると言われているにもかからず、宗教界からは何一つ声が聞こえてこないのは不思議を超えて幻滅でもある。そうした対策は政府の仕事だと言われればそれまでのことかも知れないけれど、手を拱いているばかりの宗教にも抱擁する力や他者を認めようとする努力が見られないことに独善の現実を垣間見てしまう。

 少し話題の路線が外れてしまったけれど、「好き」だけを強調することは結局独善の世界に閉じこもることを承認することになってしまうだけで、人生と言う豊かな布を織り上げることはできないのではないだろうか。どっちが縦糸で、どちらを横糸と呼ぶべきかは分からないけれど、「負」を認めそれを自身の中に交差させていくことで人は人になっていくのではないのだろうか。「嫌い」であることの存在を認めるということは、他者そのものをきちんと認めることと同じだと思うからである。



                                     2009.4.8    佐々木利夫


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