金持ちは昔からいた。語り継がれてきた長者に連なる多くの昔話は、金にしろ蔵に山積みされた米俵にしろ金持ちでない人たちにとって裕福であることは幸せの象徴でもあった。たとえその長者に子がなく、時に治らない病にかかることがあり、場合によってはその非情や無礼さが神や仏の怒りを招くことがあったにしてもである。

 それでも人はいつからこんなにも金に執着するようになってしまったのだろうか。つい最近いわゆる振り込め詐欺に関わっている若者を追いかけた報道があった。銀行に振り込まれた金を引き出す役目を高額な日当を示されて引き受けるかどうか迷う姿、そして振り込め詐欺の実行犯の「自分の利益だけが正義」だとうそぶく姿がそこにあった。そしてそうした人達が常習的な詐欺グループや暴力団などではなく、ほんの少し前まで高学歴を持ち著名な会社の従業員であったなど、ごく当たり前の人たちであったことにショックを受けた。
 そして金への執着は被害者にも広がっていく。

 円天と称する電子マネーもどきの偽造通貨を使った詐欺事件では、年36%の高利で人々から1600億円もの資金を集めていたという。かたや「関西一の女相場師」と呼ばれていた女性は元本保証、年利24〜60%の配当を標榜して50億円を、そして「元バレーボール選手の実業家」と名乗る女性が経営する大阪の投資会社は、年利60%の高配当で73億円を集めていたなどのニュースを最近立て続けに読んだ。そしてそのどれもが配当ができなくなって詐欺であることが表面化してしまったという。
 また、「近々上場し。巨額の利益が手に入る」として会員一万人以上から百数十億円を集めた「人間と産業開発研究所」(H&M研究所)が、「・・・(金を払い込んでから)三年が過ぎた。上場した会社は一社もない」として詐欺の疑いが持たれているとの記事も掲載された(朝日新聞、2.12)。

 こんな話が矢継ぎ早にマスコミに登場してきている背景には、昨年来の世界同時不況の襲来があり、それがきっかけになって出資者たちへ約束の配当が回らなくなってきていることがあるのかも知れない。しかしそうした一方で、こうした儲け話に乗っかった何万人ものいわゆる被害者と呼ばれている人たちの存在を抜きにしては論じられないだろう。なぜなら彼等を一くくりに「被害者」と呼ぶには、あまりにも片手落ちであるような気がしてならないからである。

 確かに報道の中に登場する「被害者」として、なけなしの退職金や細々と積み立ててきた年金を失ったと自称する人達の途方に暮れている姿がぼかしを入れられた映像で登場する。
 私はそうした人たちの現状に同情しないとか、話してる内容が嘘だと言いたいのではない。恐らく虎の子を無くしてしまったことは事実だろうし、途方に暮れて茫然自失であることにも違いはないだろう。

 それにもかかわらず私はどこかで醒めているのである。一つはそうした茫然自失の映像が選択され編集された特異な状況を持つ人の姿であって、決してこうした被害者と呼ばれる人たちの平均的な姿を示しているのではないとの思いが強いからである。投資した金が戻ってこないことで明日食う米を買う金にも事欠く人がいないというのではない。だがそんな人はむしろ例外であって、マスコミが被害者をことさらに誇張して映像化しているのではないかと思っているからである。

 例外的な存在であっても、現にそうした人がいるのなら、それを報道することはマスコミの姿勢として認めるべきなのかも知れない。それにどんなに偏らないつもりで報道したところで、厳密に中立公正な事実の報道なんてことのあり得ないことは分かっているつもりである。カメラを回し、伝えるべき文章を作り、決められた時間内に納まるように編集し、そして視聴者に伝える。こうした一連の流れはまさに特定の人が自ら判断し自らの感性によって行うものなのだから、何らかの意図なり意思がそこに入り込むことを避けることはできないだろう。

 それでも報道は常に中立であるとの意思を持って行わなければならないのではないだろうか。平均値こそが中立だなどとは必ずしも思わない。しかしながら、極端な事例をあげつらって報道することは、それを見る者に混乱した意識を植え付け、場合によっては誤った方向へと誘導してしまうことにもなりかねないのではないだろうか。そうした意思を単なる「報道の驕り」と片付けてしまってはいけないのであり、場合によっては視聴者に対する愚弄でもあるのではないかと思うのである。

 そしてこれが私の本音でもあるのだが、こうした儲け話に乗っかった何万人もの人々の自己責任に一つも触れようとしない報道の姿勢、そして被害者であることだけをことさらに強調する姿勢にも、どこか嘘っぽさを感じてしまうのである。

 「元本保証」や「年利数十%の運用利回りがある」と信じたことに私は間違いなく自己責任があると思うのである。人の思いは常識みたいな世間の流れに左右されるであろうから、例えば銀行預金が銀行の破綻で回収できなくなった場合などにまで自己責任を負わせようとは思わない。それは「銀行の信用」などは現在では社会の常識として広く世間に定着している考え方だと思うからである。

 「銀行預金では利息が増えないし、少しでも有利な運用をしたい」との思いを否定したいのではない。だがうまい話には裏があることや高リターンにはそれだけ高いリスクが伴うこともまた世の中の常識ではないのだろうか。
 だから私は「被害の事実」と、「被害者であること」とは区別して考えてもいいのではないかと思っているのである。高リターンを望んだことは、場合によっては高リスクをも合わせて選択したことだと思うからである。損をしたことを馬鹿にするとか、軽率だなどと責めようとは思わない。宝くじを買って三億円はおろか最低の300円すらも当たらなかったことと同じだと思うからである。「被害の額」があり、そうした儲け話が虚偽だったのなら「詐欺」として刑事告訴するもよし、被害額を回収すべく裁判を起こすのもいいだろう。私はそれだけのことだと思うのである。

 ただ私はこうした「儲かる」との誘いに乗っかって損害を受けた投資者が、「私は被害者です」と主張して同情を求めるような姿に、どうしてもなじめないでいるのである。
 どうしたって私にはそこに「儲けるつもりだったのに儲けそこなった・・・」、そんな人の姿しか浮かんでこないからである。



                                     2009.2.20    佐々木利夫


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