私がふと感じただけなのだから、そんな感触のみで日本人論みたいな言い方をするは余りにも大げさだとは思うのだが、最近のニュースで少し気になったことがあった。それは村上春樹氏の著書「1Q84」の発売についてであった。6月9日のNHKはこの本が発売と同時に驚異的な売上を見せ、先月(5月)27日の発売以来2週間で100万冊を超えたと報道していた(NHKニュース、19時〜)。

 私はこの驚異的な販売の事実が気になったのではない。気になったのは発売前からこの本に対する予約が前代未聞と言われるほどにも殺到していた事実についてであった。村上春樹氏が著名な作家であることに異論を唱えるつもりもないし、彼の著作の人気が高いことについてだってその事実を否定しようとも思わない。そして彼の著作が最近の出版業界では異例ともいえるほど爆発的な売り上げになっていることにだって、私が彼の本を読みたいと思うかどうかとは別のことであり、そうした人気についても何らクレームをつけたいとも思わない。

 ただこの本が予約だけでこんなにも人気がでたことにどこか腑に落ちないものを感じたのである。それは予約の内容が、著作者と書名だけだったからである。つまり、これ以外に著書についてはあらすじはもとより概要などの情報さえも発表されなかったのである。
 著作者については前述した。残るは「1Q84」の書名である。発売されてからこそ、それが1984年に起きた男女の物語だとの風評が広がったけれど、仮に書名を1984に読み替えたところでそこから内容を想像することなどできはしない。
 にもかかわらず5月27の発売を前に爆発的な予約が殺到し、発売後も売れ切れが続出し2週間で100万部を超えたのだそうである。

 こうした傾向についてもそれなり識者と称する者の解説がついていて、それによれば発行所の採った販売戦略、つまりハングリーマーケティングが勝利だったとの評である。私はそうした売り方の巧妙さなどについて、例えば「やり方がきたない」だとか「ずる賢い」などとは豪も思わない。
 ただこれしきの販売戦略や作られたハングリー(飢え)にたやすく乗せられ、一斉に右を向いてしまう人々の姿勢にどこか情けなくなったのである。そんなたやすさに軽々と釣られてしまう日本人の購入動機と言うか買いたいと思う衝動に、私はやりきれない思いを抱いてしまったのである。その著書の内容に関するなんらかの情報があり、その情報なり噂なりに惹かれてその本を手に取ったというのなら分からないではない。しかし、丸っきり情報がない状態の下で、「予約販売」との宣伝のみに釣られてその予約に殺到する日本人の姿に、どこか自己主張が欠けた流されやすい性格を見る思いがするのである。

 そうした傾向はこの本の予約販売にのみ見られることではないかも知れない。インフルエンザには毎年一千万人近くも罹患しているにもかかわらず、新型インフルエンザのウイルスが数十人、数百人に見つかったとの報道がされたとたんに日本中がマスク不足に陥ったりすることや、北朝鮮の後継者がどうのこうので、そのことによる結果や政治の動きなどの検証もないままに大騒ぎするマスコミの慌てぶりや誤報問題(後継者の写真を入手したとする特ダネが誤りだったことがあった)なども同様の系譜に連なっているのかも知れない。

 昨年から続く不況がデパート業界にまで拡大し、各地で廃業や統廃合が見られる。北海道でも丸井今井デパートが会社更生法の適用を申請し事実上破産したし、かつて札幌駅前での大きな店舗だった五番館デパートも西部デパートに吸収され、そのデパートも廃業することになった。そうした流れは一つには栄枯盛衰として割り切るべきなのだが、それに便乗した「閉店セール」が盛んでそれなりの集客力を持っているようである。だだ、そうしたセールを宣伝する店員の放った一言がどうもひっかかってしまった。それは「閉店セール用の商品もたくさん仕入れました。皆さんのご来店をお待ちしています」との発言だった。そして開店前から行列をつくる客の姿である。

 「閉店セール」と言うたった一言に流されて群がる客、「閉店セール」用に商品を仕入れる店・・・、なんか変である。私の頭には「閉店セール」イコール「在庫の見切処分」であるとの方程式が抜けがたく染み付いているからである。

 また、政府が補正予算に計上した「アニメの美術館」とか称する施設についてもそうである。「こんな不況の下で、食うものも食えない時代に、マンガとは一体何ごとだ」みたいな意見ばかりがマスコミを中心に世の中を席巻している。だが日本のアニメはもしかしたらこれからの日本の経済発展に大きな影響を持つかも知れない力を潜めている分野である。
 もちろん「今食う米がない」ことへの対策も必要だけれど、将来の日本を見据えた議論もまた同時に必要である。結果的にアニメの美術館建設に反対するなら反対でもいいけれど、アニメを日本の財産とする動きにも理解した上で、それよりも当面はこちらの政策を進めるべきだと主張する程度の心のゆとりくらいは必要なのではないだろうか。「たかがマンガ」とばかりに一刀両断に切り捨ててしまうのはどこか短絡的に過ぎるような気がしてならないのである。

 拙速も一つの動きとして必要な場合もあるとは思うけれど、死刑問題でも裁判員制度でも核実験でも麻生総理批判でも、なんでもかんでも日本人には何かの小さなきっかけを受けて同じような流れにすぐに乗っかってしまうような傾向があるようで、そこのところが私にはどこか危うく思えて仕方がないのである。

 そうして、例えば災害などによる数日の営業休止であるにもかかわらず、向けられたマスコミのマイクに「死活問題です」などと大げさな表現をしてしまうような日本人、そしてそれを無批判に垂れ流す報道のあり方などに、どこか「日本の将来」を託すことの危うさまでをも感じてしまうのである。



                                     2009.6.18    佐々木利夫


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日本人の思い込み